避難者が無用な被曝をするに至る経緯
以下カウントダウン・メルトダウン(下)から抜粋

第18章 SPEEDIは動いているか
SPEED- は動いているか 放射性物質の広がりを気象条件などをもとに迅速に予測するシステムSPEEDI 。放射性 雲は、浪江町へと移動し、雨雲となって地上におちたが、その予測は住民には知らされない。

「SPEEDIがフル稼働中ではないかな」
  「原子力安全・保安院の、緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステムSPEEDI がフル稼働 中ではないかな。しかし計算結果は公表されていない?」(2011/03/15/1420)
 ツイッターがSPEEDI( 緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)という聞き慣れない言葉をつぶやき始めた。 3月15日午後2時20分。早野龍五東京大学大学院教授が流したツイートである。
 早野は原子物理の専門家である。
 東大で博士号(理学博士)を取得した後、長い間、カナダのブリティッシュ・コロンビア大学で研鎖を積み、国際的にも行動半径が広い。2008年度の仁科記念賞(「反陽子ヘリウム原子の研究」) を受賞している。
 ツイッターの内容はそれだけだったが、注目を浴びた。
 早野は、ドイツのシュピーゲル誌が掲載した放射性物質シミュレーションについて、16日にオース トリア気象地球物理学局(ZAMG)の研究者に確認したことをツイッタlに書き込み「洋上での広がりをざっと見るにはよいが、どの自治体に影響するか、などをこれから読んではいけない」と情報の見方を提示していく。
早野のツイッターのフォロワーは、地震前の3 月7 日は2255 人だったが、3 月11日を境に急増した。
テレビ中継される原子力安全・保安院や官房長官の記者会見を見ながらその内容を解説し、書き込みを見ているツイッターユーザーの質問に答えていくうちに、そのわかりやすい表現や実直な受け答えが評判となり、みるみるうちにフォロワーが増え、14日に2 万3112 人、21日にはほ15万1757人へと膨れあがった。
 早野は研究者に放射線データの提供を呼びかける一方、専門家たちの仕事を積極的に紹介し始めた。
 中川恵一東京大学医学部附属病院放射線科准教授らの放射線医療チームのツイッターも早野が紹介した。1 週間も経たずに、中川のフォロワーも20万人近くになった

 政府は、SPEEDI というシステムを備えていた。
 これは「原子力施設から大量の放射性物質が放出されたり、あるいはそのおそれがあるという緊急時に、周辺環境における放射性物質の大気中濃度や被ばく線量などを、放出源情報、気象条件、および地形データをもとに迅速に予測するシステム」(原子力安全・保安院ホームページ)である。
 政府の防災基本計画(中央防災会議:平成初年2月)では、文部科学省は、第10条通報を受けた場合、原子力安全技術センターに対して、ただちにSPEEDI ネットワークシステムを緊急時モードに切り替え、原子力事業者または安全規制担当省庁からの放出源情報が得られ次第、放射能影響予測を実施するよう指示すること、そしてそこで得られた結果は、文部科学省の端末に配信すること、が定められている。
 その専用端末は文科省、保安院、原子力安全委員会に据えてある。
 その目的は、それを活用して、放射性物質の拡散範囲を予測し、住民を危険地域に入らせないようにすることである。
 SPEEDI の運用は本来、文科省が行うことになっている。文科省は、公益財団法人の原子力安全技術センターにオペレーターの委託契約をしている。
 原子力安全技術センターは、文部科学省の指示に基づき、11日午後9時以降、福島第一原発から毎時1 ベクレル(Bq)の放射性物質の放出(単位量放出)があったと仮定した場合の、1時間毎の放射性物質の拡散予測を行う計算(定時計算)を行っていた。
 そして、原子力安全技術センターは、その試算結果を関係機関に送付していた。
 ただ、保安院も原子力安全技術センターのオペレーターを保安院のERC( 緊急時対応センター)に入れ、独自に予測を始めた。
 11日午後9時12分。保安院は1 回目のSPEEDI 試算結果を出し、官邸地下の危機管理センターの専用端末にその予測図を送った。
 それは、翌12日の午前3時半に福島第一1号機のベントを実施した場合を想定し、放射性物質がどのように拡散されるかを試算した結果だった。
 放出された放射性物質が拡散するさまは、風向き、風速、地形などによって違ってくる。
 普通は、プルー ム(放射性雲)は同心円状には広がらない。
 しかし、この情報は首相には伝わらなかった。
 12日午前1時12分。保安院は、2 回目のSPEEDI の予測結果を出し、官邸の危機管理センターの専用端末に送った。
 これもまた、首相には伝わらなかった。
 保安院から危機管理センターの専用端末に送られたのはこの2枚に終わった。保安院はその後も、SPEEDI 予測を行ったが、それらはERC 内でとどまっていた。その数は、43回167 枚に及んだ。

 3月15早朝。2号機の格納容器が損傷し、4号機建屋で爆発が起こった。その日は南向きの風が吹き、昼過ぎから北西に流れた。
 午前9時。福島第一原発正門付近で、毎時1万1930 マイクロシーベルトが測定された。
 午後11時台には、同じく正門付近で毎時7000〜8000 マイクロシーベルトが測定された。
 大量の放射性物質がこのとき放出された。
 同日午前、福島第一原発から半径20〜50キロ圏内の住民に出された指示は「屋内退避」だったが、南相馬市はこの日から希望者に対して市外への避難誘導を実施し始めた。多くの市民が飯舘・川俣方面に避難した。
 浪江町は、この日の朝方、二本松市へ避難することを決め、住民避難を実施した。
 浪江町の山間部から飯舘村長泥にかけて県道には車が殺到した。
 長泥地区の村人は、炊き出しに精を出した。そこに逃げ込んでくる南相馬市からの避難民を支援するためである。
 その上をプルーム(放射性雲)が流れ、雨になり雪になりして、地上に落ちた。
 そのことを人々は知らなかった。

 しかし、政府は気がついていた。
 15日夜、文部科学省のモニタリングチームは、福島第一原発から北西方向20キロ付近、浪江町のある地点の空間放射線率を計測した。
 毎時330 マイクロシーベルトという高い数値が出た。
 彼らはその数字を文部科学省災害時対応センター(EOC)に伝え、EOC は安全委員会に通報した。
 文科省は、ただちに官邸の緊急参集チー ムに報告。16日午前1時過ぎ。そのデータを報道機関に資料配布し、また、ネット上でも公開した。
 しかし、地区名は伏せた。肝心の浪江町には知らせなかった。
 この地点をピンポイントで計測するように彼らに指示したのは文科省だった。文科省は、SPEEDI の試算によって、その方向にプルー ムが流れることを予想していた。

モニタリングチーム

 この地点を測定したのは渡辺真樹男と雨夜隆之という文部科学省の職員だった。
 渡辺は、原研(現・日本原子力研究開発機構)や六ケ所村でウランとプルトニウムを分ける抽出作業を専門とし、その後自分で起業した経験もある。6年前に技官として文科省に採用された。原子力保安検査官と原子力防災専門官を兼務。このときは、文科省茨城原子力安全管理事務所に勤めていた。
 雨夜は、エンジニアリング会社、日揮の放射性廃棄物処理処分(バックエンド)の専門家だったが、同じく文科省に中途採用された。核物質防護検査官。ここ6年ほど研究用原子炉の安全規制と核セキュリティーを担当してきた。
 文科省は事故後、二人をはじめ現地に10人以上を派遣し、モニタリングチームを構成した。
 14日朝。二人は、茨城県の原子力オフサイトセンターから福島原発に車で向かった。
 文部科学省のEOC の担当官から福島県・大熊町のオフサイトセンターに行くようにと指示されたのだ。
「とにかく行ってくれ」
 それだけだった。行って何をしろ、という指示ではない。
 同日午後4時過ぎ、大熊町に到着した。オフサイトセンターに行くと、玄関先で靴や衣服のスクリーニングが行われていた。タイベックスーツに半面マスク、シューカバーという装備に身を包んだ担当者が出入りする職員の汚染状態を念入りに測定していた。
 渡辺と雨夜はスクリーニングを受けたが、靴底から1600cpm( 13.33マイクロシーベルト)の汚染が見つかった。これだとシューカバーをしなければならない。
 それまで保安巡視で立ち入りした原子力施設でも最大200cpm(1.66マイクロシー ベルト)ほどだった。原発事故が深刻であることを思い知らされた。
 シューカバーを二重に装着して、2階の対策本部に行った。
 通信手段が衛星携帯電話しかないようだった。みな、この携帯電話の通話から得られる情報に聞き耳を立てていた。
 福島県原子力センターの2階が文科省と日本原子力研究開発機構(JAEA)の放射線モニタリングチー ムの拠点となっていた。渡辺と雨夜はそこのグループに入った。文科省からは水戸原子力事務所長が指揮官として来ていた。
 午後9 時過ぎ。グループ会議が終わり、休憩していたときだ。
 誰かが1階から階段をバタバタと上がってくる。
「退避!退避!総員退避!」
 大声で叫び、それをくり返しながら、階段を引き返していった。
 誰も何のことかわからない。
 文科省の指揮官が「すべて放棄して退避する。全員JAEA のパスに乗車すること」と指示した。
「公用車などのキーはすべて車にきしておくこと」
 と彼はつけ加えた。
 現地対策本部が福島県庁に移転することが決まったという。
 駐車場に出ると、自衛隊の車輸が整然と走り出すのが見えた。
 茨城で調達してきた食料品はすべて、センターに置いて移動せざるをえない。
 バスが走り出したところで、半面マスクが配られ、全員、それを装着した。
 バスは、国道288 号線を西に向かい、郡山から南下して国道118 号線に入った。
 福島県庁に隣接する「公共の宿」、杉妻会館に到着したのは15日午前1時40分だった。
 靴底は1万cpm( 83.33マイクロシーベルト)を超え、"放射性廃棄物"と化していた。
 寝付かれないまま、床に身を横たえていると、
「2号機が爆発したらしい」
 という情報が伝えられた。
 福島第一原発正門前の線量率は「毎時マイクロシーベルトではなく毎時ミリシーベルトのレベル」とのことだった。1000 倍単位の汚染領域に突入したことになる。
 後に、渡辺と雨夜は、EOC が、二人が福島県庁に移転したことを「職場放棄」とみなしたことを知った。
「勝手に職場放棄をしてけしからん。それに、装備も公用車もそのまま残して撤退するとは何事だ!」
 そのような"お怒り"だったという。
「職場放棄」の言に、渡辺も雨夜も、ヘタヘタと座りこむほどの徒労感を感じた。
〈線量がどんどん高まるオフサイトセンターにあのまま踏みとどまったとしても無用な被ばくを受けるだけじゃないか〉
〈それでは、連中があのとき、大熊町オフサイトセンターにいたとして、いったいどういう行動がとれたのか〉
 雨夜は、どこかで覚えた英語の表現を思い出した。
〈They do not know what they do not know. (連中はわかっていない。そのことがわかっていない)〉
〈そうなのか。文科省という役所は、職員の無事より車輸や物品の方が大事なんだ〉
 いったん、茨城県の職場に引き返したものの、同じ15日午前、二人はEOC から「再び、福島に行ってほしい」と指示された。
 午後5 時ごろ、杉妻会館に着き、一服しているところで、EOC からモニタリングの地点を示すFAX が送られてきた。
 発電所北西方向20キロ付近(浪江町昼曽根及び川房)でモニタリングするようにとの指示である。
 EOC はSPEEDI の試算結果を参考にしていた。
 FAX で送られてきた地図には、20キロの境界線も入っている。そこに1 、2 、3 の3 つのポイントがマークされている。
 雨夜が杉妻会館で借りた道路地図と照らし合わせ、測定地点を確かめた。
 そこは浪江町山間部の昼曽根、川房、そして飯舘村長泥の3 カ所、いずれもピンポイントだった。
 15日午後7 持。浪江町に入った。明かりはほとんど見えない。
 外はみぞれ交じりの小雨で、沢筋を中心に霧が立ちこめていた。
 サーベイメーターの線量がグングン上昇する。川俣町の山木屋を過ぎたころには、低線量用のNaIサーベイメーターは測定可能範囲を超えたため振り切られていた。いざというときのために持参した高線量用のICサーベイメーター で測ると毎時50マイクロシーベルトを示していた。
〈文科省は、おそらくこのへんが高そうだということを知っていて、われわれに計測を指示したの、だろう。なぜ、高線量用を持っていけと最初から言わなかったのか。高いから気をつけて、ぐらい言ってくれてもいいのに〉
 そんな気持ちにもなった。
 最初のモニタリングポイントの昼曽根トンネル近くで測定した。
「200 マイクロシー ベルトを超えている!」
 自然界の6000 倍から7000 倍というとてつもない数値である。
 核物質をつかむ"マジック・ハンド"を操作する際の金属ガラスの向こう側の異次元の世界の数値である。
〈本当にこれが管理区域でもなんでもない一般の環境中の放射線量なのか〉
 サーベイメーターが汚染されて測定値に誤差が生じてはならない。
 渡辺が測定した後、サーベイメーターを紙タオルで包みながら数値を読み取り、雨夜がそれを復唱しながら記入していった。
 午後8時40分から10分間、浪江町の赤生木と手七郎の交差点近くで計測した。
 空間放射線率は、毎時330 マイクロシーベルトを示していた。
 その後、行った長泥も78〜95 マイクロシーベルトと高い。
 長泥は、飯舘村南部にあり浪江町と境を接する。
 携帯電話は「圏外」の表示が出てしまう。衛星携帯も調子が悪い。
 山木屋まで戻った。そこの公衆電話からEOC に報告した。
 時計を見ると、午後9 時半だった。
 戻る途中、何人もの人々に出会った。
「線量が高いですよ」
「赤生木では毎時330 マイクロシーベルト出てます。この数値をみんなに伝えてください」
 雨夜はそう呼びかけた。

 卑怯者には守れねえ

 大急ぎで宿舎に帰らなければ危険だ。
 高放射線地域から逃れるために山道を高速で飛ばした。
 崖から落ちそうで怖かった。
 福島市内の杉妻会館に戻ったときの雨夜の被ばく量は毎時129 マイクロシーベルトに達していた。
 雨夜は、電話で東京に伝えた測定データをFAX でEOC に送った。確認のためである。
 大広間にはぎっしり布団が敷き詰められていたが、20畳のところに30人ほどが寝ていた。二人の寝る場所はなかった。JAEA の好意で彼らの部屋に同宿させてもらった。
 就寝したときは、16日午前零時半になっていた。
〈命がけで採取したデータだ。EOC も命がけでそれを福島県民に伝えてくれるだろう〉
 二人はそう信じていた。
 後に、二人は、この「330 マイクロシーベルト」の情報が原子力災害現地対策本部に届いておらず、従って自治体にも通報されなかったこと、そして、その責任は、現地対策本部の状況を把握せず、FAX の到達を確認もせず、現地対策本部にも行かなかった二人の「測定者」にあるかのように言われていることを知った。
 16日。この日の天候はめまぐるしく変わった。
 薄日が差したかと思うと、雪が降りはじめた。モニタリングを始めるころになると、激しい雪になった。雪が容赦なく口の中に入ってくる。
 二人は半面マスクを着用して、作業した。
 防護服はオフサイトセンターから慌ただしく退却する時、置いてきてしまった。
 二人は話し合った。
「住民がいるかもしれない地域でのモニタリングでは、防護装備を着用するのはやめよう」
 住民の被ばく評価のためには、彼らと同じ状況で被ばくした自分たちのデー タが参考になるだろう。
 タイベックスーツも半面マスクも着用しない。
 そう誓い合った。
 しかし、このときは例外をもうけざるを得なかった。
 川内村役場では、庁舎内は毎時1 マイクロシーベルトだった。
 放射線量が思ったより低い。
〈地形によってこのようなまだら模様になるのか……〉
 若い警官にその数値を知らせると、張りつめていた顔から笑顔がこぼれた。
 17日。国道114 号線から399 号線の浪江町赤生木〜飯舘村長泥にかけての放射線モニタリングを行った。
 この測定は、原子力安全委員会からの指示だった。
 決められた3 つのポイントを1時間ごとに3 回くり返して測定してほしい、という。
 午後3時過ぎまで行った空間線量率のモニタリングの結果、
 ポイント31(浪江町・津島)
 ポイント32(浪江町・川房)
 ポイント33(飯舘村・長泥)
 いずれの地点でも高い放射線量を測定した。
 ここの上空をプルームが通過したことは明かである。
 人が生活している気配を感じたので、EOC には「高線量の地区に人が住んでいる」と報告した。
 測定を進めていくうちに、二人は住民の複雑な気持ちを思い知らされた。
 山木屋では、測定していたとき、近くに住む年配の男性からかじっていたトマトを白いライトバンに投げつけられた。
「おまえらのせいでこんなことになったんだぞ」
「いや、申し訳ございません」
 謝ったあと、「高い線量が出ていますよ」と伝えた。
「避難されないんですか?」
 その会話をきっかけに、しばらく男性と話し合った。
 別れ際、男性が声をかけた。
「ご苦労様です」
 何度も測定すると住民は不安になる。しかし、測定に行かなくなると、今度は「見捨てられた」と感じて、不安になる。
 宿に戻って、測定データの整理をしているとき、EOC の担当官が連絡してきた。
「測定レンジの間違いや読み違えはありませんか?」
 変なことを聞く、といぶかっていると、原子力安全委員会がこの測定値に疑念を持っている、という。
「文科省モニタリングチー ムの測定値に間違いはない」と安全委員会側には返答したが、「文科省の測定ではあてにならないのでJAEA に測定させてください」と要求があったという。
 原子力安全委員会は、各機関がバラバラに行っているモニタリング計測の方法と質と内容にばらつきがあることを懸念していた。
 14日午前には福島県の「モニタリングポストに核種が固着している可能性」があるとERC 放射線班に指摘したこともある。
 しかし、そのようなことを二人は知らない。
〈原子力安全委員会というところはいったい何だ。本来なら自分たちがまっさきに現場に来て現状を確認するのが役目ではないのか〉
 安全委員会から「ガセネタを上げた張本人」にされたのかと思うと、ドッと疲労感がこみ上げてきた。
 その後しばらくして二人は、ウィーンから飯舘村に来た国際原子力機関(IAEA)調査団の現地視察の手伝いをした。
 そのとき、IAEA の職員に「なぜ、日本の原子力安全委員会の担当者がここに来ていないのか」と聞かれた。答えようがなかった。
 翌18日、JAEA のモニタリングチー ムがまったく同じポイントを同じように測定した。
 ほどなくしてJAEA のチームから渡辺の携帯電話に連絡があった。
「昨日の測定値と同じです。ヨウ素131 の減衰が考えられますので、やや小さな値ですが、昨日の測定に間違いはありません」
 19日早朝。二人はEOC から特別任務を与えられた。
「新聞で報道されている、原乳からヨウ素131 が検出されたという牧場に行って、空間線量率を測定し、午前9時30分までに報告してほしい」
 午前7時に出発した。
 場所は、川俣町山木屋にある牧場とのことだったが、行ってみると豚用の牧場だった。
 渡辺は苦笑した。
「豚が原乳を出すわけないよな」
 ずいぶんと探し回ってようやくその牧場を探し当てた。
 牧場主夫妻に断り、牛舎の前で放射線量を測定しEOC に報告した。
 すでに福島県が原乳のサンプルを持っていって分析した。その結果、ヨウ素131 が検出された、と牧場主は話した。
 先代が開拓した牧場をここまでにした。丹精を込めて育ててきた乳牛たちだった。彼は、しぼった乳をそのまま捨てていた。
 年老いた牧場主夫妻は「もう牧場を畳まなければならない」と言った。
〈放射能は、生活を奪っただけではない。夢と希望を根こそぎ奪ったんだ〉
 胸が締めつけられた。

 帰途、2 日前に測定した3 つのポイントを再び測定した。
 その際、長泥の鴫原(しぎはら)良友区長に会った。鴫原は区長1期目である。
 鴫原は避難の準備をしていた。
 鴫原の家は長泥十字路から150 メートルほど離れたところにある。
 雨夜は、サーベイメーターを見せながら、測定結果を示し、この区域の放射線量が高いことを伝えた。
 EOC からまた連絡があった。

 広野のメディカルセンターに行ってほしい、との指示である。
 往復200 キロはある。疲れがたまっていたが、「待っている患者のために行こう」と申し合わせ、J ヴィレッジに行ったところで、「メディカルセンターに行く必要はなくなった」と通知を受けた。
 福島市内の宿に帰ったのは午後9時前だった。
 この日、走行距離は550 キロにのぼった。
 後のことになるが、鴫原が次のようなことを話したと渡辺は人づてに聞いた。

 鴫原の家の近くに、白いワゴン車が1台、十字路の道路脇に停車していた。
 中には白い防護服(タイベックスーツ)を着用し、防護マスクを被った男たちが数人いて、窓を小し開けでは、細長いノズル(金属棒)を突きだしている。
 全員、積算線量計を身につけている。
 数値を教えるように求めたが、彼らはそれを拒否して、何かに急かされるように去っていった。
〈何をビクビクしてやってんだ。もっと落ち着いてやってくれよ。放射能はガラスもコンクリも通り抜けちゃうんだろう。マスクやっても気休めじゃないのか〉
 そう言いたくもなったが、鴫原は黙っていた。

 鴫原が出会ったのはJAEA のモニタリングチー ムだったに違いない。
 渡辺は、この話を後に聞いたとき、
〈鴫原さんの気持ちもわかるが、モニタリングチームの置かれた状況も考えてあげなくては……ちょっと可哀想だな〉
 と感じた。
〈JAEA の測定者たちは若い人々も多い。タイベックスーツを身につけて仕事をするのも理解できる。みんな必死になって仕事をしていた。彼らの中には家族が被災した者も多かった〉
〈それに、防護服の上に防寒着は着れない。あのころ、すごく寒かった。車の中から測定していたとしても責められない〉
〈ただ、鴫原さんはじめ住民が、あいつらは出てこない、なんだあいつらは、と感じたこともまた否めない事実なのだ〉
 渡辺と雨夜が「測定の作法」とした「タイベックスーツも半面マスクも着用しない」、そして「サーベイメーターを示して数値を住民に伝える」やり方は、二人が現場で話し合って決めたものだった。
 その作法をJAEA のチームにも押しつけるべきか否か、渡辺はずいぶん迷ったが、それを強制することは避けた。
 渡辺はかつて原研で働いたこともあり、年配でもあったことから文科省とJAEA の測定班の班長のような役回りをしていた。
 渡辺と雨夜は、「防護服を着用するべきか否か」を、計測される住民の心情に寄り添う形で自らに問い質し、着用しないことを決めた。しかし、危機管理という観点からは防護服の着用が正解だったかもしれない。
 防災担当者は、その役割を持続的に果たすには健康でなければならない。
 モニタリング測定者が汚染された場合、汚染を拡大させてしまう可能性がある。
 住民はいったん避難させてしまえば被ばくリスクは少なくなるが、防災担当者は継続的に業務を行うから被ばくするリスクはより大きい。
 それだけに、測定者は汚染予防には細心の注意を払わなければならない。
 モニタリング測定者が防護服を着用するのは、そうした観点からは必要であり、必須なのである。
 少し後のことになるが、4 月中旬、枝野幸男官房長官は南相馬市内を防護服を着て視察した。
 その際、20キロ圏から出て、防護服を脱ぐ映像がテレビに流れた。
 周囲に防護服を着用していない人が映っている。
 たちまち「自分だけ放射能から身を守ろうとしている」との批判がネットに出回った。
 批判する人々は、原発から初キロ圏内の避難区域は、防護服の着用が義務づけられていることには思い至らない。
 そもそも防護服は主に放射性物質の周囲への拡散を防ぐ目的で用いられるのである。

 JAEA のチームは、ー台3000 万円もするモニタリングカーを持ってきていた。これは車の中からダストサンプリングができるとの触れ込みだった。

 ところが、車そのものが汚染されたため、車載していた機械も汚染され、使えなかった。
 渡辺と雨夜のライトバンで十分、用は足りた。
 渡辺は、
〈モニタリングカーもまた、安全神話の表れなのだろう。「こんな立派な車があります。しっかり測定します。だから大丈夫です」……〉
〈いざとなったら、使い捨ての車を用意すればいいのだ〉
 と思った。
 二人に対してEOC の担当官は「官邸に報告する」とか「官邸の指示」という言い方をした。
〈なぜ、わざわざ官邸、官邸と言うのだろうか?〉
 二人は首を傾げた。JAEA のモニタリングチームの人々も、「官邸主導のモニタリングなんですか」と尋ねてきた。
〈文科省は線量の高いところの測定をするとそれが住民避難につながるため、そういうところの測定は官邸の名の下にやろうとしているのか〉

 1 日で550 キロメートルを強行走破したあの日。
 雨夜は、車のハンドルを握りながら、
〈忌野清志郎が叫んだ通りだ〉
 と思った。
 忌野清志郎は、反原発のプロテストシンガーである。
 若いころ、何度も聞いた。
 好きな歌は、1988 年リリースの『サマータイム・ブルース』。

 それでもテレビは言っている
 「日本の原発は安全です」
 さっぱりわかんねえ、根拠がねえ
 これが最後のサマータイム・ブルース

 あくせく稼いで税金取られ
 たまのバカンス田舎へ行けば
 37個も建っている
 原子力発電所がまだ増える
 知らねえ内に漏れていた
 あきれたもんだなサマータイム・ブルース

 電力は余ってる
 要らねえ、もう要らねえ
 原子力は要らねえ
 危ねえ、欲しくない

 安全は守れない。
 あいつらじゃ無理だろう。
 卑怯者には守れねぇ。

「一般にはとても公表できない」

 低線量の放射線を浴びた場合、数年から数十年後にガン、白血病や遺伝的障害などの晩発障害が起きる可能性があるとされる。
 原子力安全では、被ばくリスクを「合理的に達成できる限り低く抑える」ことが肝心である。
 そして、原子力火災が起こった際は、放射性物質の拡散状況を的確に把握し予測することが不可欠である。
 そのためには、炉内事象(特にソースターム)の把握、SPEEDI の運用、モニタリングの実施、そして避難などの行動を迅速に行わなければならない。
 なかでも環境放射線モニタリングがカギである。

 東京電力も、電事連(各電力会社)も、福島県も、文部科学省・JAEA も、そして自衛隊と警察も、さらに米政府も、それぞれに放射線モニタリングを行った。
 このうち自衛隊と警察の放射線モニタリングは自分たちの活動の補助的役割だったが──自衛隊の中央即応集団(CRF)は1時間ごとにモニタリングを行った── 、他のモニタリングは主として住民の避難を念頭に行った活動だった。
 東電の場合、発電所敷地内と周辺の放射線モニタリングをすることが防災業務計画で定められている。
 地震と津波による全交流電源喪失のため、福島第一原発敷地内に設置されていた8台のモニタリングポストと各号機に接続する14台の排気筒モニターは、すべて動かなくなった。
 このため、東電は11日午後5 時から、モニタリングカー1 台を用いて、第一原発正門前をはじめ敷地内の複数の地点で線量を測定し、東京電力や保安院のホームページに結果を公表した。
 福島県の場合、原子力安全・保安院の要請で県内に24台のモニタリングポストを設置していた。鉄筋コンクリ製の小さな建屋の中に放射線測定器、デー タを現地対策本部に送るテレメーター電送装置、非常用の小型発電機を備えている。それらのうち23台が、3月11日午後4時半には、地震や津波の影響で、使えなくなった。

 文科省は自らモニタリングを実施したが、同時にJAEA にもそれを委託していた。
 11日夕、文科省は、JAEA の職員7 人をオフサイトセンターに派遣要請した。
 彼らは12日午前6 時半過ぎ、オフサイトセンターに到着。同日、福島県のモニタリング支援のため、同県のモニタリング班の一員として、福島第一原発から10キロ圏内の浪江町周辺のモニタリングを行った。
 文科省はまた、12日夜、隣県の茨城県内からJAEA のモニタリングカーなど3 台を派遣した。
 いずれも福島県のモニタリング機能がマヒしてしまったための支援という側面を持っていた。
 新潟県も当初、福島県へのモニタリング支援に動いた。
「モニタリングポストがやられた。ただちにモニタリングを展開したいので、人手を貸してほしい」福島県からそのようなSOS が発せられたのがきっかけである。
 専門知識を持った新潟県の職員が、可搬式モニタリング機器を携え、福島市まで移動カーを運転して、届けた。
 しかし、県庁に行ってみると、
「やっぱりいいです」
 と言われた。
 新潟県の職員が放射線量モニタリングのデータの提供を求めたところ、相手は、
「勝手に出すな、と国から言われていますので」と煮え切らない。
「どうもふらつくんです」
 新潟県の担当職員は上司に報告した。
〈最初は全力でやるはずだったが、どこかから力が働いて、測らせないようにしたのか?〉
 泉田裕彦新潟県知事は合点がいかなかった。
 泉田は、12日午後の1号機の水素爆発後、新潟県のチームを福島県と新潟県の県境まで引き揚げさせ、そこでモニタリング作業をさせた。
 福島県はすでに、モニタリングから撤退に向かっていた。福島県は12日早朝からモニタリングを始めたが、1号機建屋の爆発による線量の上昇などによって撤収に向かい、午後9時、モニタリングチームを解散した(15日には、モニタリングカーなどの資機材を残したまま、オフサイトセンターから撤収した)。
 もっとも、肝心の文科省自体、モニタリング・オペレーションはもたついた。
 モニタリングカーの派遣の指示が遅れたため、文科省の支援要員のオフサイトセンター到着も遅れ、現地到着は13日昼前になった。
 GPS を搭載していなかったため、車に乗って測定しても「ハテ、ここはどこかな?」ということもあった。
 文科省のモニタリングチームは、12日夜、避難区域に指定された20キロ圏内には入らなかった(JAEA のチームは入った)。
 14日午後、細野豪志首相補佐官は、文部科学省の加藤重治審議官を部屋に呼びつけた。
 加藤はその日、地下1階の危機管理センター緊急参集チームに詰めていた。
 その日の午前、3号機建屋が爆発した。
「放射線モニタリングをちゃんと取らないと大変なことになる」
 細野はそう言った後、加藤に文科省がどんなふうにモニタリングをやっているのか、その結果はどうなのか、を質した。
 加藤は答えることができなかった。
 細野から呼び出しがかかったと聞いて、すぐ文科省EOC にモニタリングのデータを開いたが、担当者は「データはありません」としか答えられない。
 EOC へのデータの集約がまったくできていなかった。
 細野は目玉をギョロリと剥いて、加藤に言い渡した。
「もっとしっかりモニタリングをやってください」
 福山哲郎官房副長官や伊藤哲朗内閣危機管理監も、文科省の官僚が「現場とは関係ないような顔をしている」ことに憤った。
〈モニタリングをしています、と彼らは言うが、モニタリングするポイントが少ないし、それ以上やろうとはしない〉

 15日午後1時から聞かれた第8回原子力災害対策本部会議では主として文科省に対してさまざまな注文がついた。
 菅直人首相が口火を切った。
「水道、食糧、農産物への影響について、濃度のモニタリングをしっかり行ってもらいたい。これを踏まえて各省でどう対応するか、至急各省で検討してほしい」
 枝野が続いた。
「せめて公表の5分前に知らせてほしい」
「単位をそろえてモニタリング数値を出して欲しい」
 鹿野道彦農水相「食品の放射性物質の基準を決めてほしい」
 北澤俊美防衛相「自衛隊でもモニタリングを行う。モニタリングポストのポイントを調整しよう」
 こうした官邸や政府部内の不満に応える形で、文科省はこの日、モニタリング・カー6 台を新たに投入し、またモニタリング要員として文科省職員5人、日本原子力研究開発機構(JAEA) 職員4人、原子力安全技術センター職員4人のモニタリング体制を組んだ。
 ただ、文科省は14日以降は、20キロ圏内からの避難措置がほぼ終わった、あるいはこの地域での放射線量が上昇してきた、といった理由をつけて、この区域でのモニタリング・カーを用いたモニタリング活動は行わなかった。

 唯一、自衛隊だけが福島第一原発近くでの作業のため、20キロ圏内のモニタリングを実施していた。
 この状態は、3月28日、対策統合本部が、「警戒区域」設定後の同区域への一時立ち入りに当たって、同区域のモニタリングを速やかに実施することを決めるまで続いた(3月30、31日の両日、東電は電気事業連合会(電事連)の協力を得て、20キロ圏内の33カ所でモニタリングを実施した)。
 航空機モニタリングも結局は、タイミングよく実施できなかった。
 原子力安全技術センターは、パンフレットには「事故時に航空モニタリングをします」と宣伝していたが、それは民間のヘリをチャーターすることも想定していた。
 この想定はいかにも甘かった。
 危機のとき、被ばく地域の上を飛ぼうという民間のヘリ会社はどこにもなかった。
 文科省は防衛省にヘリを飛ばすよう依頼した。
 自衛隊は、その朝まで津波の被災地で人命救助にあたっていた中型ヘリ1機を測定に回すことに決定し、六ケ所村に向かわせた。
 12日午後1時、ヘリは青森県・六ケ所村の運動公園に着陸した。
 しかし、文科省からモニタリング機材を運ぶように指示された原子力安全技術センターの職員はその時刻に姿を現さなかった。航空機は10分間待って、飛び立った。
 安全技術センターの二人の職員が公園に来たのはそれから1時間半後だった。
 六ケ所村は震災後、お時間にわたって停電に追い込まれ、携帯も通じない状態に陥っていた。
 安全技術センターと現地の連絡が「伝言ゲーム」となり、正確に伝わらなかったという「連絡不調」が原因とされている。
 もっとも、すれ違いについては他の理由を指摘する声もあった。
 センターが用意していた航空機モニタリング用の機器は、民間機チャーター仕様であり、自衛隊機仕様ではなかったため手間取ってランデブーは不発に終わったらしい──そうした話が原子力安全委員会には入ってきた。
 それを開いたとき、安全委員会の職員の一人は思った。
〈なぜ、センターはヘリの一つも持てないのか。オウム(真理教)でさえ、ヘリを持っていたというのに……〉

 14日午前。防衛省(自衛隊)のヘリが、モニタリングをするため離陸態勢に入ったところで、「3号機が爆発するかもしれない」との情報が飛び込み、離陸を断念した。
 15日午前日時加分。自衛隊のヘリによるモニタリングのため離陸したが、まもなく機長に「4号機爆発」の情報が入り、モニタリングは中止された。
 文科省が航空機モニタリングを実施したのは、3月25日、独立行政法人宇宙航空研究開発機構(JAXA) の協力を得て、同機構が所有する気象観測用の小型機に放射線測定器を搭載して行ったのが最初である。
 危機のさなか日本のモニタリングは"地上戦"だけで終わった。

 15日午後8 時。文部科学省大臣室。
 高木義明文部科学相、鈴木寛副大臣、笹木竜三副大臣ら政務三役5人と事務方の協議が関かれた。
 担当者がSPEEDI と、より広域に拡散状況を試算できる世界版SPEEDI(W-SPEEDI)の試算結果を示し、状況を説明した。
 SPEEDI は、1 回放出による100 キロ圏内の評価結果である。
 WSPEEDI は、関東、東北地方にプルー ム(放射性雲)が流れるという予測結果を示していた。
 鈴木は次のように主張した。
 WSPEEDI の試算結果が出ると、たちまち風評被害が起こり、東京から福島への輸送もストップしてしまうだろう。すでに郡山市と福島市から福島第一原発のある沿岸地帯の「浜通り」へは輸送トラックの運転手が運搬拒否をしており、物流が滞っている。

 なかでも必要なのは、ガソリンや重油を福島県内に届けることではないか。それが行かないと、救急車も動かない。
「いま、大事なことは、次に亡くなる命を減らすことだ」と相馬市の立谷秀清市長が言っているが、立谷市長の言うとおりだ、この点に注意を払っておかなくてはならない。
 それに、WSPEEDI は、放出量が100% 、つまり全原子炉が壊れた場合を前提で計算している。
 そんな高い放出量で予測することが果たして妥当なのかどうか。
 文科省EOC 放射線班の内部メモによると、政務三役は、「一般にはとても公表できない内容」であると判断。「SPEEDI およびWSPEEDI の結果については、別途標準的なものを用意する」こととなった。
 この点に関して、班目は後に、次のように証言している。
「文科省から公開された計算結果を見ると、全原子炉が壊れた場合には首都圏を含め広域に放射性ヨウ素の雲が広がる。深刻な被害を示す結果が出ていました。これを文科大臣ら政務三役に説明したところ、パニックを心配して、とても公表できない、という判断だったようです」

 15日午後9時26分。文科省EOC に、渡辺真樹男と雨夜隆之の二人のモニタリングチームから緊急電話が入った。

「ポイント32で、330 マイクロシーベルトの数値が出ました」
 ポイント32は、浪江町川房である。
 彼らは、川俣町・山木屋の公衆電話から電話をしてきたのだった。
 彼らはその日の夜、福島県庁隣の杉妻会館に泊まった。
 そこから文科省のEOC にこの結果をFAX したが、文科省EOC はその情報を現地対策本部に連絡しなかったし、関係市町村にも連絡しなかった。
 それぞれの所管官庁がバラバラにモニタリングを行っていた。
「一覧性のない、ここの部局のはかったのはこれで、この部局のはかったのはこれでというような構造になっていて、こんなものを各部局がホームページで公表しても国民の皆さんはわからない」のが実態だったと枝野は後に述べている。
 枝野は、「モニタリング・データのフォーマットの不統一は、行政の縦割りが情報の共有を阻害」しているととらえた。
「いくら高度の技術によって情報の絶対量や精度を上げても、それぞれが集約され、整備され、共有されなければ、それはまったく機能しない」
 政府全体としてのモニタリングの把握と責任の主体があいまいだった。
 原子力安全委員会は、文科省のモニタリングの測定方法が統一されていないため、採集したデータを比較できないと苦情を申し立てた。
 岩橋理彦事務局長は、次のように振り返る。
「測定方法が統一されていないから、沈着物にしでもなかなかデータを比較できない。データがほんとうに信憑性があるのかどうか、計測器が汚染されていると高い線量が出る。だから、そうなっていないかどうか、こちらがデータを使うたびにいちいち確認しなければならなかった」
 官邸は、モニタリングの最大の責任官庁である文部科学省に対する苛立ちを強めた。
 福山や伊藤のところには、福島大学などの渡透明副学長を中心とするチームがモニタリングを実施しており、飯舘村も含めて汚染マップもつくっているとの情報が入った。
 伊藤は文科省の担当者を呼んで、言った。
「福島大学がここまでやっているのに、なぜ、文科省はできないんですか」
「いや、やればできます。ただ、人手が足りないし、車も足りないんです」
「文科省、持っていないんですか」
「全国からかき集めればなんとかありますが、ただ、電事連のでないとダメです」
「電事連の」とは、車外に出なくてもダストサンプルを計測できるモニタリングカーのことである。
 電力会社からモニタリングカーを借り上げないとやっていけないと恥ずかしげもなく言う。
〈要するに小出しにしているのか? それとも、自分たちの責任と思っていないのか?〉
 伊藤は、憤った。
 鈴木は、「モニタリングについては、情報参謀と作戦参謀の仕事をきちんと分けなければならない。文科省は、情報参謀と情報部隊の役割を担う。原子力安全委員会は、作戦参謀を担うことにするのがいい」といった論理を編み出した。
 15日夜から16日早朝にかけて、鈴木は福山官房副長官にそのような考えを伝え、モニタリングの役割分担を官邸主導で決めてほしい、と訴えた。
 これとは別に、枝野の指示で、枝野の秘書官たちが文科省、保安院、防衛省、警察庁、原子力安全委員会、JNES 、原子力安全技術センターの課長クラスを官邸地下1 階の会議室に呼び、モニタリングの強化について話し合った。
 文科省だけのモニタリングではとてもムリだろう、との認識の下、どのようにしたらモニタリングを強化できるか、が議論のポイントだった。
「モニタリングカーというのを文科省は持っているが、チョロチョロやっているだけだ。定点観測でもないし、数も絶対数が足りない」
「同じ基準でやらないとダメだ。例えば地上1 メートルで測るとか、その地点を決めて、定期的にやるとか」
「そのとりまとめを文科省にやってもらう」
 そういう話し合いを持った。
「データのとりまとめは文科省、その評価は原子力安全委員会」
 彼らはそうした役割分担を決め、その旨、枝野に報告した。

 "枝野裁定"

 16日午前8時ごろ。官邸危機管理センター脇の小部屋で、枝野官房長官、鈴木文部科学副大臣、久住静代原子力安全委員会委員、福島章原子力安全・保安院付、田中敏文部科学省大臣官房政策評価審議官らによる緊急会議が開かれた。
 緊急参集チームの円卓まわりで、関係者が「ハイ、これから会議をしますから集まってください」と告げられた。
 原子力安全委員会の職員の表現を使えば、「ポコッと呼ばれて」、会議が始まった。
 この小部屋は内閣危機管理監が、大部屋では話しにくいことをプライベートに使う部屋である。
 久住は「官邸から、久住さん、呼ばれています。すぐ行ってください」と言われ、駆けつけた。
 最初、5 階の官房長官秘書室に行くと、そこに鈴木が待ちかまえたように立っていた。すると枝野が出てきて、一緒に下に行こうということになり、地下1 階まで降りた。ところが、小部屋に入ったが、席がなく、立ったままで会議に臨んだ。少し遅れて出席した福島も同じように立ったままだった。
 席上、鈴木が、モニタリングの現場の問題点に触れた。
 福島県も現地対策本部もモニタリング機能を失っている。
「原子力安全委員会は頭を使う仕事をしてください。われわれは首から下の仕事に徹します」
「文科省は、とにかくいいデータも悪いデータもひたすら調べたら、どんどこどんどこ出すことにします」
 枝野が発言した。
「放射線モニタリングの結果がバラバラに上がってくる。ちゃんとしたモニタリング体制をつくりたい」
 枝野はそう言った後、福島県のモニタリング機能が麻痺していること、そして、現地対策本部も福島県庁に移転したこともあってモニタリング機能を十分に果たせないことを指摘した。
「モニタリングそのもののところは、文科省に集中してやってもらいたい」
 鈴木がダメを押した。
「うちはモニタリングの観測と取りまとめに徹するということでいいですね」
 枝野が、うなずき、言った。
「モニタリングの評価は原子力安全委員会にやってもらいたい、それでいいですね」
 久住が、発言した。
「モニタリングをするときに、雨が降ったかどうかを記してください。それからできればGPS で場所を押さえてください」
 それから、つけ加えた。
「測定データはファイルか何かの形で文部科学省からいただけるんですよね」と聞いた。
 枝野はそれには直接、答えずに、福島第一原発から20キロ以遠の陸域で各機関が実施しているモニタリングのデータの役割分担を改めて明確にしたいと述べ、出席者の意見を聞いた。
 その結果、「モニタリングの実施の取りまとめ及び公表は文部科学省、モニタリング情報等の評価は原子力安全委員会、評価に基づく対応は原子力災害対策本部(事務局・原子力安全・保安院ごと整理するとの"枝野裁定"を下した。
 ただ、この"裁定"はモニタリングについてのみであり、SPEEDIの公表、評価、対応については触れられていない。
 枝野も誰も、この会議でSPEEDI については一切、発言しなかった。
〈モニタリングの評価の中に、シミュレーションのようなものも入るんだろうな〉
 田中は、そんな感じを抱いて部屋を出た。
 安全委員会と保安院からの出席者も駆けつけたが、「結論は決まっていたし、まったくのセレモニーだった」と安全委員会の幹部は後に述懐した。
 モニタリングの仕切りについて、久住は別段、発言しなかったが、それは、ここでの会合が、〈会議というよりは、言い渡しますからという感じ〉だったこともある。
 福島に至つては、協議も終わりに近くなってから呼び込まれ、ただ結論を関かされただけだった。
 実際のところ、この日の朝、枝野、福山、鈴木の3 人が官邸5 階で立ち話のまま、モニタリングの仕切りについて確認し、その後、関係者を呼び込んだのである。
 鈴木は、田中に会議のメモをつくるよう指示した。
〈原子力安全委員会の人たちは、『聞いていない』『開いていませんでした」ということを平気で言うから、後で面倒にならないようにしておこう〉
 そう考えてのことだった。
 午前11時ごろ。文科省は政務三役が出席し、幹部会議を聞いた。
 この席で鈴木は、「当省はモニタリングデータの評価は行わないことになったのであるから、今後、SPEEDI はモニタリングデータの評価を行うことになった安全委員会において運用、公表すべきであると思う」と述べた。
 出席者全員が合意した。
 同日午後、枝野は官房長官記者会見で「原子力発電所の周辺、退避の外側、20キロから外側の近い部分について、文部科学省がモニタリングを開始」したと述べた上で、「モニタリングについては、原子力発電所の敷地内、その周辺については、経済産業省、保安院がしっかりと把握をして報告するように、その外側の地域については、文部科学省が、その全体の集約、集計を行うように」と発言した。

 16日昼ごろ。原子力安全委員会の水間英城総務課長の電話が鳴った。
 文科省科学技術・学術政策局原子力安全課防災環境対策室という長々しい名前の部署からである。
 まったく知らない女性からの電話に水間は戸惑った。
 水間は旧科学技術庁で原子力を担当してきた職員である。文科省のおおかたの原子力担当者は知っている。
「失礼ですが、どなたですか」
 相手は原子力安全技術センターから文科省に出向している調査員だという。
〈文科省は、なぜ、課長ではなく財団法人から出向いている一調査員から総務課長に電話させるのか〉
 水間は、怪訝に思った。
 相手は話し始めた。
「本日、官房長官が決定したことはご存じですよね。それを受けて、文科省では環境モニタリング測定を充実強化させることになりました」
「それを受けて、文部科学省の最高幹部が決定をしましたので、お伝えいたします。ぜひ、聞いていただければと思います」
「最高幹部は、本来の被ばく予測ができていないSPEEDI は文科省では使わないことにしましたので、文科省のEOC に来ている原子力安全技術センターのオペレーターのやることがなくなりました。原子力安全委員会が行うモニタリング評価等に際してのSPEEDI の使い勝手をよくするためにですね、こちらにいるオペレーターを今日すぐにでもそちらに派遣いたしますから、使ってやっていただければ……」
 水間は、遮って、尋ねた。
「SPEEDI は、文部科学省が原子力安全技術センターに委託して整備、運用しているものでしょう。そこのオペレーターがこちらで作業することで、この委託関係やセンターの役割が変わることはあるのですか」
 文科省以外の政府機関がSPEEDI を利用する場合、原子力安全技術センターに直接依頼することは認められず文科省を経由しなくてはならないし、試算結果も文科省の承諾なしに公表できない。
 そうした委託契約やルールとなっている。その点を問い質したのだった。
 相手は答えた。
「原子力安全委員会としてSPEEDI を用いる場合に、これからいちいち文科省を通じて連絡していただく必要はなく、センターのオペレーターに入力条件などを示してもらえばいいと思います。それから、原子力安全委員会が新しいオペレーターの費用とかそういうものを負担するということは全くありません」

「あれは悪党だね」

 しばらくして、森口泰孝文科審議官から水間に電話が入った。
 森口もまた旧科学技術庁出身である。プルトニウム再処理などの核燃料サイクル行政を務めてきた。
 森口が核燃料課長のとき、水間はその下で働いたことがある。
 旧科技庁系は、霞が関官僚の中では政治との縁は薄く、また権謀術数にも疎く、「ひ弱」と言われるが、「原子力ムラの連中はその中では鍛えられている」(文科省課長の一人)と言われてきた。とりわけ森口は「武闘派」として一日置かれてきた存在だった。
 森口は、言った。
「官邸のお裁きで、SPEEDI の運営所管はそちらの方でお願いすることになった。まあ、頼むわ。うまくやろうよ」
 水間は、答えた。
「そうはいかないですよ。ここは内閣府ですし」
 森口の電話の中身を水間から知らされた安全委員会の幹部たちは憤った。中には、水間と同じように旧科技庁系の職員もいる。
「うまくやろうよ、はないだろ」
「だいたい、連中はわれわれのことを戦国時代の出城のように思っているのか。面倒なことは押しつけ、いざとなれば切り捨てようということか」
 その日、班目春樹原子力安全委員会委員長の携帯電話にも森口から突然、電話がかかってきた。
「政府を挙げてSPEEDI を活用していかなくてはならないときです。頑張っていただきたい」
 班自は森口の名前は知っていたが、それまで一度も会ったことはない。
〈知らない人間がなぜ、自分の携帯電話番号を知っているのか〉
 班目は訝しがった。
 班目は、とっさには返す言葉が見つからなかったが、森口の言わんとするところはだいたい見当がついた。
〈モニタリングに関する役割分担は官邸がお決めになったことだとことさらに言い立て、SPEEDIについてもその延長として決まったかのように言おうとしているんだ〉
〈そのようにわれわれに思いこませようとしているのか〉
〈そんな催眠術にかかるものか〉
 班目は、水間に森口から電話があったことを伝えたあと、つぶやいた。
「あれは悪党だね」
 16日午後、原子力安全技術センターのオペレーター二人が安全委員会事務局にやってきた。
 班目は納得がいかなかったが、それでも、同日から、原子力安全委員会では久木田豊委員長代理が中心となって、放出源情報を逆推定するためにWSPEEDI の解析結果を活用した。
 一方、文科省はこれ以後、JAEA に対して、官邸の専門家助言チームの指示を仲介した2件以外、WSPEEDI の計算依頼は中止した。
〈SPEEDI をほしいままに使える。そう思うだけで技術者としての食欲をかきたてる。森口たちはそれもまた計算に入れていたのか〉
 原子力安全委員会の事務局スタッフは、そのように憶測した。
 ただ、安全委員会は、久木田たちの作業もあくまで「放出源情報の推定」作業であり、「運用」に取りかかったわけではないという立場を取った。
 文科省は安全委員会にSPEEDI の運営所轄を「移管」したとの認識だが、安全委員会は官邸からそれを「移管」するという指示を受けていないし、「たまたま、オペレーター(原子力安全技術センター)に部屋貸し」をしたとの見解を貫いた。
 その日。文科省のEOC の放射線班の班員が、原子力安全委員会にやってきた。放射線測定専門(二種)の担当者だった。
 彼は岩橋に、
「こちらでSPEEDI の仕事をやらせてほしい」
 と頼み込んだ。
 岩橋は言った。
「職場放棄しちゃだめだよ」
 彼は帰っていった。

 16日午後、文部科学省で行われた笹木竜三文部科学副大臣の記者会見では次のような質疑応答があった。

記者「SPEEDI のデータ公開についてはいかがでしょう」
笹木「SPEEDIについては原子力安全委員会が、やるやらないということも含めて決定をするということです」
記者「実際にいま、動かしていないんですか」
笹木「これは、原子力安全委員会で動かしています」
記者「これは原子力研究開発機構(JAEA)が持っていますよね。あれは所管は、文科省になるわけですよね」
笹木「こちらからソフトを提供して、向こうが実際にそれを使っているということです」
文科省事務局「原子力安全技術センターです」
記者「原子力安全技術センターというのは、文科省の所管になるわけですよね。そうすると、文科省側が主体的に判断して公開できるものだと思うんですけれども、それはなさらないんですか」
笹木「原子力安全委員会が、それを実際に使う、使わないの判断も含めて向こうでやるということです」
記者「それは、出てきているものがそのままだと混乱を招く恐れがあるからですか」
笹木「これは私自身ですが、率直に実際のことをお話しすると、SPEEDI については、初めて目にしました」

要するに、SPEEDI の試算結果公表は、事故当初のものからすべて、原子力安全委員会に責任が移ったということを言おうとしているのである。

久住は、文科省が原子力安全委員会にモニタリングの評価を任せ、その上に原子力安全技術センターのオペレーター二人を安全委員会事務局に異動させると聞いたとき、
〈文科省という役所は何て気前いいんだろう〉
と一瞬、思った。
そうではなかった。
それは、霞が関の言葉で言うところの「消極的権限争い」の典型だった。
"枝野裁定"をよいことにSPEEDI の評価を原子力安全委員会に押しつけようとしたのである。

 文科省は、単位量放出に基づいた予測以外にも、福島第一原発のすべての原子炉が壊れて放射性物質が全量放出された場合や、原子炉1基分の放射性物質がすべて飛散した場合など、各種の仮定に基づく計算を事故発生の翌日から行っていた。
 SPEEDI だけでなく、地球規模の広域拡散を計算できるW-SPEEDI も動かしていた。
 にもかかわらず、SPEEDI 本来の試算は単位量放出を仮定した中途半端なデータだけだった。

 避難に利用できるほど、放射性物質の拡散の実態を正確に反映したものではない。
 しかし、まったく役に立たないものではない。ある程度なら拡散の状況はわかる。
 そういうわけで、その結果を公表してこなかった。
 それまでの試算結果を含めて、早急にSPEEDI を手放さないと、公表を迫られ、データを隠蔽していたのではないかと言われかねない。
 さらに、公表しなかったのが原因で被ばく者が出たと言われ責任を問われる怖れもある。
 その一方で、これまでの様々な仮定条件で試算したデータをすべて公表した場合、パニックが起こりかねない。それも避けたい。

 原子炉の水素爆発が相次ぎ、SPEEDI の試算結果に関心が高まっていた。
 このままでは地域住民と世論の激しい批判を招きかねない。
 SPEEDI の運用、試算結果の評価、公表といったリスクを背負い込む作業からは一切手を引き、それらを丸ごと安全委員会に押しつけようとした。
 官房長官指示によるモニタリングデータの役割分担の仕切りにSPEEDI を絡めて、SPEEDI のデータ評価も安全委員会に裏口移管させようとした。

 班目はそのように見なし、それを文科省の「奇襲作戦」と形容した。
「旧科技庁系は、被ばくの問題からはスーッと手を引いていった」
 旧文部省の幹部は、SPEEDI から逃げ回った文科省の対応をそのように形容した。
 もっとも、消極的権限争いという点では原子力安全・保安院も似たようなものだった。
 SPEEDI の活用のあり方は、本来なら原災本部の放射線班が策を練らなければならないはずだった。
 しかし、原災本部の事務局の保安院は早々と白旗を揚げてしまった。
〈「原子力安全委員会こそ司令塔であるべき」という"神話"が経産省・保安院中心につくられつつある。だからことさら委員長(班目春樹)を前面に出そうとしているんだ〉
〈保安院に対する矛先をそらすために、安全委員会を盾に使っているな〉
 原子力安全委員会の都筑秀明管理環境課長はじめ安全委員会の幹部たちはそのころ、一様にそう感じたと都筑は後に振り返った。
 原子力安全委員会は、枝野の仕切りで、放射性モニタリングの評価を急速、担わされ、また、SPEEDI の逆推定を求められることになった。
「文科省にはめられ、経産省・保安院にもはめられた」
 都筑は、官房長官の采配の裏にそのような黒い手を感じた。

"枝野裁定"の際、久住が要請した文科省のモニタリング測定データセットの原子力安全委員会への提供は結局、実現しなかった。
 原子力安全委員会からの要請に対して、文科省は「ホームページに公表しますから、それを見てください」との返事だった。
 原子力安全委員会のスタッフは、文科省のホームページにアクセスして、一つ一つ手書きで書き取ることになった。

官邸はいつ知ったか

官邸にSPEEDI の活用を検討するよう最初に強く進言したのは、近藤駿介原子力委員会委員長を座長とする助言チームだった。
 このチームのことについては第16章(「最悪のシナリオ」)で触れた。
 小佐古敏荘東京大学大学院教授は16日午前、内閣官房参与に就任した。
 小佐古はその日の午後には早速、鹿野道彦農水相と細川律夫厚労相に立て続けに会った。
 面会は、空本誠喜衆議院議員と大島敦衆議院議員がお膳立てした。
 小佐古は鹿野との会合では、次のように訴えた。
「最初から食品の放射能検査をやっていただきたいと思います」
「放射能検査機が自衛隊の大宮(化学防護隊)に2000 台あります。あれをただちに取り寄せていただきたい」
 同席していた農水省事務方はあっけにとられていた。
 小佐古は、ウクライナのチェルノブイリの調査のため現地を訪れている。
〈チェルノブイリをそのままなぞって先回りすれば事故被害を緩和できる〉
 と思っていた。
 しかし、菅首相はじめ官邸の反応は鈍かった。
〈みんな、プラント収束しか頭にない〉
 原発危機は、プラント収束だけではない。住民避難と環境影響・被ばくもそれに劣らず大きいのだが、政府は環境影響と被ばくの問題をまだ十分に考えていない、と小佐古は感じた。
 16日、小佐古が空本とともに伊藤内閣危機管理監に会ったとき、伊藤は「原子力の危機に関しては全部保安院に任せる。保安院が原災本部の事務局ですから」と言った。
 小佐古は、不安を覚えた。
〈保安院はプラントはできるが、環境影響、被ばくはどうなのか〉

 官邸中枢の政治家たちは、SPEEDI の存在そのものを知らなかった。
 枝野官房長官は、15日ごろ、「マスコミか何かから」だったと明かしている。
 その後、枝野は福山とともに、文部科学省、原子力安全委員会、原子力安全・保安院の担当者を呼び、実態を尋ねた。
 いずれも「放出源情報がないので動かしていません」との答えだった。
 SPEEDI の存在を知った後、枝野は、SPEEDI のデータはすべて公表するよう文部科学省に指示したが、文科省は単位計算によるシミュレーションの結果の報告を枝野に入れなかった。
「実際には使えない情報として、私にまで情報を隠していた」と枝野は後に文部科学省を非難することになる。
 福山官房副長官も枝野と同じころ、「マスメディアを通じて」そんなシミュレーションがあることに気づいたと言う。
 福山がそれに真剣に取り組み始めたのは18日である。
 この日、小佐古と空本にFAX を送り「SPEEDI について、具体的に何をすればよいか」助言を求めた。
 小佐古は内閣官房参与就任直後の17日から「SPEEDI を動かせ」と主張していた。
 寺田学首相補佐官の場合、「小佐古が対策統合本部あたりでわめいているのを聞いた」ことでその存在を知った。
 海江田経産相は、3 月20日ごろ、初めてそれを教わった。
 保安院は、11日午後9時に2号機のベントを仮定した影響予測を原子力安全技術センターに委託して以来、何十とSPEEDI の試算結果を手にしていたが、この結果を海江田には報告しなかった。
 15日から現地対策本部長として福島市に移転したオフサイトセンターに入った松下忠洋経産副大臣は「23日だったか、報道で知った」と証言している。
 政治家たちのほとんどは当初、SPEEDI の存在そのものを知らなかった。
 それに気づいたところ、関係省庁からは一斉に「それは動かしていないし、使えない」と言われた。
 班目は、「ソースデータがないから使えないんです」と菅と枝野に言った。
 原子力安全委員会は当初、公開に慎重だった。
 班目の見解は、文科省、原子力安全・保安院に共通した見解でもある。
 しかし、深刻な原子力災害において、放出源情報が常に、また確実に得られるとは考えにくい。だからこそ、「環境放射線量モニタリング指針」では、「緊急時には、放出源情報を迅速かつ正確に入手する必要があるが」、「一般に、事故発生後の初期段階において、放出源情報を定量的に把握することは困難であるため、単位放出量または予め設定した値による計算を行う」とも記されている。
 2010 年10月に浜岡原発で実施された原子力総合防災訓練でも、ヨウ素の放出量を単位放出量としたSPEEDI の予測計算が行われた。
 16日午後5時56分、枝野は、官房長官記者会見で「ただちに人体に影響を及ぼす数値ではない」との見解を示した。
 ところが、15日から16日にかけては、放射性物質の大気中への放出量がピークに達し、福島県内の多くの地域や関東北部に至る広範な地域に放射性物質が飛散した。
 下手すると住民、いや国民にパニックを引き起こすかもしれない。
 炉内の状況についての情報開示にしても、放射線量にしても、住民避難にしても、情報開示の仕方を一つ間違えると内閣が吹っ飛ぶ、そうした瀬戸際に追い込まれつつあった。
 中でも、官邸は「福島県知事の懸念」を常に頭に入れておかなくてはならなかった。
「SPEEDI の中の、放射性物質の帯が福島市の方向に向かっているというデータ」に佐藤雄平福島県知事は怒った。
「どういう根拠でこんなモノ出すのか」
 佐藤は官邸政務に「不快感」を伝えた。
 官邸は、データ公開に一層、慎重になった。
 官邸は、モニタリングの役割分担は枝野が調整役を買って出たものの、SPEEDI の仕切りについてはあえて動かなかった。
 遅くとも15日から16日のモニタリングの役割分担のころには官邸政務中枢はSPEEDI の存在を知るに至っている。
 事故発生からすでに4日間も経っているのに、そしてそれまでに4回も住民避難指示を発しているのに、官邸政務はSPEEDI の存在を知らなかった。
 原子力防災を担当する担当者たちの誰一人として政治家にそれを想起させなかったし、提案もしなかった。
 彼らはそれを内々では活用しながら、危機対応に生かそうとしなかった。
 それを知らなかったこと、そして、使わなかったことが激しい非難の対象になる恐れがあった。
 使うのか使わないのかを決めなければならない。
 使う場合のリスクは何か。使わない場合のリスクは何か。
 そして、それを公表するべきか否かを決めなければならない。
 公表する場合のリスクは何か。公表しない場合のリスクは何か。
 それらの錯綜するリスクを前に逃げ回った文科省を蔑むのはたやすい。
 しかし、そのリスクは官邸もまた直面しているリスクでもあった。
 くだんの16日午前8時からの枝野の主宰した会議に先立って、その前の晩に枝野の秘書官たちが聞いた協議が終わった後、秘書官の一人が官邸政務に報告した。
「心配しないでください。SPEEDI のS の字も出ていませんから」
 秘書官たちは、SPEEDI の"きな臭さ"に気づき始めていた。

───中略───

「原子力安全・保安院の、緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステムSPEEDI がフル稼働中ではないかな。しかし計算結果は公表されていない?」
 3月15日午後2時20分の早野のツイッターが投げかけた問題提起は、なぜ、その解析結果が公表されないのか、という疑問を含んでいた。
 東京大学の早野龍五の戦いはその後、どうなったのか。
 翌16日、東京大学災害対策本部長(本部長・前田正史副学長)は、「研究科長・研究所長各位」宛てに「福島原子力発電所の事故に関する放射線情報等の扱いについて」との通知(第2報)を発出した。

〈東京大学では、標記に関連して「災害対策本部環境放射線対策プロジェトを立ち上げ、キャンパス内の放射線量率を継続的に測定し、その結果に基づき、学内関係者にお願いする具体的対応を、ポータルサイトを通じて周知しております。つきましては、放射線関係の情報に関してはマスメディアより様々な情報が流布されておりますが、各部局においては、教職員・学生に無用の混乱を招かぬように、環境放射線対策プロジェクトとの相談なく、直接に連絡を行うことのないようご注意ください〉

 この通知に先立って、早野のもとには対策本部から"使者"が訪れ、早野のツイッターが「無用の混乱」を招かないようやんわりとクギを刺していった。
 早野は、おそらく自分が誰よりも"標的"にされているのだな、と感じた。
 すでに対策本部から、早野に対して「放射線情報に関する情報発信、とくにメディアとの接触(新聞も含め)については、広報室で情報を一元化したいので、事前に知らせるよう」との通知が山形俊男理学部長経由で届いていたからである。
 「SPEEDI がフル稼働中ではないかな。しかし計算結果は公表されていない?」との問いは、実は、山形が相原博昭副研究科長や早野たち理学部の同僚に問題提起していたことだった。
 山形は「SPEEDI が動いていないのではないか。もし、そうだとしたら、天気予報モデルで、緊急に放射能の大気拡散のシミュレーションをする必要がある」と主張した。山形は国際的に知られた海洋気象学者である。
 早野は12日に鈴木寛文部科学副大臣に呼ばれ、その後ほぼ常駐する形で鈴木を手伝っていた。
 17日。早野は中川恵一東京大学医学部附属病院放射線科准教授とともに副大臣室で鈴木に会った。
「SPEEDI が稼働しているはずです」
「どうなんですかね。動いているんですか。私は知りません」
 そんなやりとりがあった。
 早野がツイッターのフォロワーが十数万人になったと言った。
「100 万人になってほしいですね」と鈴木は言い、早野の活動を激励した。
 早野は鈴木とSPEEDI について、その後も電子メールでやりとりをした。
 20日、鈴木は「当初から稼働しているようです」とメールに書いて寄越した。
 21目、「原子力安全委員会において、当初から積極的に活用しているようです」となった。
 そして、24日には、「すずかん(鈴寛)です」から始まるこんなメールを送ってきた。
「本当に数日間にわたり原子力安全委員会にSPEEDI の公開を政府内でも様々な政治家が再三再四、提案し続けて参りましたが、私もくたびれました。最後は強引に枝野官房長官が、記者会見で、委員会の了解を得ずに押し切りました」
「原子力委員会に何かを具体的に命ずる大臣がおりません。担当は松本龍防災大臣ではありますが。今回はその独立性が裏目に出ました。このことは自然科学者の照だけでなく、社会科学、政策科学、制度設計上も、検証し、改善すべき課題だと存じます」

 早野は、「科学者の良心」を守るための戦いをしていた。
 文科省と日本のいくつかの学会が、「無用の混乱を招かぬように」との理由で、科学者の独立性と良心に対して圧力をかけていると早野は感じていた。
 早野はその点を鈴木に訴え、支援を求めた。
 鈴木は、旧知の東大の松本洋一郎副学長に電話し、東大の災害対策本部が早野のツイッター発信を制限しようとしているのは学問の良心に反する、と述べ、早野の活動を保障するよう要請した。
 松本は流体工学の権威である。
 松本は浜田純一総長と「研究の多様性と研究の卓越性の双方とも大事だが、多様性がさらに重要」との東大ビジョンを唱えてきた。
 シングル・ボイスやユニーク・ボイスといった「単一真理」論は真理への道ではないと考えている。
「学者、科学者は発信する権利を持っている、自らのツイッターを禁止するということはありえない」
 松本は明快だった。
「東大のホームページに出すわけにはいかないが、早野の個人のブログであれば問題ないと思います」
 17日に早野と中川が鈴木に会った際、鈴木は、大気中の放射性物質拡散情報を早急に国民に知らせるためにSPEEDI の状況確認と情報提供を促すには、気象学会長のメッセージと気象学界の大御所の意見が必要と述べ、彼らの支援を取りつけるよう勧めた。
 早野や山形は手分けをしながら、その方向で動いたが、気象学会の大御所である松野太郎東京大学名誉教授からは「国家がやるべきことは口を出すべきではないし、不正確な情報は国民を迷わす」との趣旨の電話を受けた。
 気象学会は18日、新野宏理事長名で「日本気象学会会員各位」宛てに、次のような通知を発した。
 
「当学会の気象学・大気科学の関係者が不確実性を伴う情報を提供、あるいは不用意に一般に伝わりかねない手段で交換することは、徒(いたずら)に国の防災対策に関する情報等を混乱させることになりかねません。放射線の影響予測については、国の原子力防災対策の中で、文部科学省等が信頼できる予測システムを整備しており、その予測に基づいて適切な防災情報が提供されることになっています。防災対策の基本は、信頼できる単一の情報を提供し、その情報に基づいて行動することです。会員の皆様はこの点を念頭において適切に対応されるようにお願いしたいと思います」

 これに先だって14日、海洋に関する基盤的研究開発を専門とする独立行政法人、JAMSTEC(海洋研究開発機構)の地球シミュレーター(ES) のコンピューターがシャットダウンした。地球シミュレーターは一時、世界一となったスパコンで、気候変動や地震などに関するシミュレーションを行う。
 その理由は、「電力危機の折、一層の節電と省エネに取り組んでもらいたい」との「国からの通達」を受け、東京大学災害対策本部が、このような状況の中で「周辺機器を立ち上げることはできないという判断」を行ったためと知った。
 節電を優先させてコンピューターを止めてしまう。
 いったい、これはなんだろうか。
 山形は義憤に駆られ、鈴木にメールを送った。
「文部科学官僚の愚かな対応を辞めさせていただきたい」

〈この国は、科学的シミュレーションを危機対応に使えない国なのか……〉
 山形は、ちょっと前に読んだ本で強い印象を受けたエピソードのことを仲間に話した。
 それは、作家の猪瀬直樹が『昭和16年夏の敗戦』で記した次のようなエピソードだった。

 近衛文麿内閣は、1941 年(昭和16年)4 月1 日に、内閣総力戦研究所を発足させた。
 軍、官、民から選抜した若手エリートお名を集め、模擬内閣を組織して対米英戦の模擬実験を行った。彼らはさまざまなシミュレーションを行った。同年8 月、その結果を当時の近衛文麿首相と東條英機陸相に報告した。
「12月中旬、奇襲作戦を敢行し、成功しても緒戦の勝利は見込まれるが、しかし、物量において劣勢な日本の勝機はない。戦争は長期戦になり、結局ソ連参戦を迎え、日本は敗れる。だから日米開戦はなんとしても避けなければならない」
 これに対する東僚の応答は次のようなものだった。
「諸君の研究の労を多とするが、これはあくまでも机上の演習でありまして、実際の戦争というものは、君たちが考えているようなものではないのであります。日露戦争でわが大日本帝国は、勝てるとは思わなかった。しかし、勝ったのであります……戦いというものは、計画通りにはいかない。意外裡なことが勝利につながっていく。君たちの考えていることは、机上の空論とは言わないとしても、あくまでも、その意外裡の要素というものをば考慮したものではないのであります」

 SPEEDI 、その後

 3月22日の参議院予算委員会。社民党の福島瑞穂党首は、政府に対してSPEEDI の情報開示を求めると共に、なぜ、それが公表されなかったのかを班目春樹原子力安全委員会委員長に質した。
 福島「SPEEDI の結果が公表されておりません。なぜ公表されないんですか」
 班目「SPEEDI というソフトウエアは、原子炉施設からどのような放出があるかがわかったときに、そのときの気象条件等を用いてどこの線量がどのようになるかというのを予測するシステムでございます。残念ながら、現在のところ原子力施設からどのような形で放出されているかというのがわからないため、現段階では使うことが無理でございます……予測はちょっと無理だということを是非ご理解いただきたいと思います」
 福島「国の様々なデータが公表されないために国民は不安になるのです。即時の公表をお願い致します」
 前日、国会で福島に追及され、やむを得ず出したのかと受け止められた。
 小佐古敏荘東京大学大学院教授は16日に内閣官房参与に就任後、SPEEDI を公表し、住民避難に活用するべきだと声を上げたが、保安院、文科省、安全委員会は動かなかった。小佐古は後にこの問題に関して「官邸の指揮采配と原子力安全委員会の無能力」を手厳しく批判した。
 SPEEDI の運用現場からはSPEEDI を活用してほしい、との声があった。
 文科省からSPEEDI の分析を委託されている原子力安全技術センターの職員たちの聞には、政府がSPEEDI を住民避難に役立てようとしないことに強い不満が噴き出した。
 センターはこの間、最初の2時間を除けば、SPEEDI を継続して運用していた。職員は24時間体制で働いていた。
 原子力安全技術センターでは、官邸に直接活用を訴えるべきだとの声が上がったが、上層部は慎重だった。
 原子力安全技術センターは契約で文科省に"納品"することになっている。それをどう扱うかは文科省次第である。現場の気持ちはわかるが、政治家への直接の働きかけを認めるわけにはいかない。
 そういう理屈だった。
 現場は、16日からHP に「SPEEDI は運用されています」(壊れてはいません)というメッセージを出し続けた。せめてもの抵抗だった。

 どこに問題があったのか。
 第一に、SPEEDI を住民避難に生かす意思の希薄さとゲームプランの不在である。
 SPEEDI の試算結果を住民避難に用いるという防災計画をつくっておきながら、それを貫徹する政府の意思は希薄だったし、ゲームプランもつくっていなかった。
 防災計画では、事故時の緊急避難は予測線量に基づいて行う。予測線量は、放射線モニタリングの結果やSPEEDI の試算結果などから推定する。
 SPEEDI には、
・放出源情報に基づく、放射性物質の大気拡散シミュレーション。
・単位放出量あるいは仮定された放出量を元にした試算。
・モニタリング(空間線量率、ダストサンプリング)結果からの逆計算に基づく放出源情報の推定(放出量、放出時刻など)。
 の3 つの運用方法がある。
 SPEEDI の目的が、住民の安全のための予防措置、なかでも住民避難のためにSPEEDI の試算結果の活用ということであれば、今後の予測線量の推定が最優先課題となるはずである。
 しかし、放出源情報が取れない状況の下ではそれはできない。
 従って、「逆計算に基づく放出源情報の推定」を行い、それを手がかりにそれまでの放射性物質の大気拡散シミュレーションを実施したのである。
 それは実際の放出源に基づく予測ではなく、単位放出量などの放出源を仮定した試算にとどまった。
 SPEEDI の試算結果のみで避難のあり方を判断すべきものではない。
 実際、11日夜からの実際の避難指示は、サイト内の炉の圧力や水の温度などの状況やモニタリング結果を参考にし、総合的に判断することになった。
 この点に関して、福山哲郎官房副長官は次のように証言している。
「このSPEEDI の結果を、我々が本当にSPEEDI を知っていて、保安院も文科省も原子力安全委員会もこのことを事前に我々に報告していて、これが活用できたかどうかというと、実は私は懐疑的です。……1単位という……仮の単位を入れたもののSPEEDI の予測で、本当に10km、20kmのレベルの住民の避難指示が場所を特定してやれたかというと、たぶんやれません。予測ソフトにそこまでの正当性は政治的には与えられません」

 放出源情報が取れなかったため、予測の不確実性が増したことは間違いない。避難指示という政治的にきわめてボルテージの高い決定を行うに当たって、不確実性が増したデータを判断材料として用いることは現実には難しかっただろう。
 福島原発事故では使えるデータやツールがきわめて限られていた。放射性物資の放出も1回で終わりではなくずっと出続けていたし、しかも、あるときはたくさん出るがそれ以外はそれほど出ないといったムラがある。逆推定もまたきわめて難しい作業にならざるをえなかった。
 にもかかわらず、いや、それだからこそ、住民被ばくのリスクをできるだけ低減させる、より安全な予防対応をするためにそれらを最大限活用することをもっと探究すべきだったのではないか。
 いち早く「風向き、風力、今後の風向きの見通し」をつかめばSPEEDI は放射性物質の拡散傾向をより的確に示すことができたに違いない。その際、カギはモニタリングの実測結果である。実測値に基づいて避難のあり方を議論するとともにSPEEDI の試算結果もあわせて参考にすることができただろう。SPEEDI は、原発事故の初期段階における予防的利用、つまりは"警報"の一つとみなすべきものなのである。
 しかし、保安院、文科省、安全委員会を問わず、SPEEDI の試算結果を避難に役立たせようという「発想」がなかった。
 森口泰孝文科省審議官は、SPEEDI は「緊急時のモニタリングの調査範聞を決定するための……内部検討用の資料」として活用したが、福島原発事故は商業炉での原子力災害であるため、避難指示などへのSPEEDI の予測データの扱いについては保安院が判断すべきだと考え、それ以上の行動は取らなかった、と証言している。
 官邸や原子力災害対策本部も含め、SPEEDI の試算結果を誰のために、どのように公表するかの確たるゲームプランを持っていなかった。
 海江田は「事故対応のうち最も反省しているのは住民避難にSPEEDI を活用できず、その結果、20キロ、さらには30キロ以遠の高線量の地域の住民をタイムリーに避難させられなかったこと」だと述べている。
「SPEEDI の結果を後から見て、やはりいま問題になっているホットスポットとかなり合致していますので、そういうことがあれば退避指示を出すときに参考になったのではないだろうか」との「忸怩(じくじ)たる思い」があると告白する。
 第二に、ガバナンスの欠如である。
 政治家と官僚の役割規定があいまいで、危機管理においての意思決定過程と指揮系統が確立していなかった。
 原子力安全・保安院では当初、住民の避難区域案づくりを担当する放射線班が、原子力安全技術センターにSPEEDI の試算を依頼した。
 11日午後9時お分に官邸が福島第一原発から半径3キロの住民避難と3〜10キロの屋内退避を決めたとき、保安院ERC( 緊急時対応センター)から戸惑いの声が漏れた。
 官邸の避難指示は、避難区域の設定を同心円で区切ったからである。
 もっともこの点は、ERC の中でも両論あった。
 放射線班は「風向きが午前と午後とでクルクル変わるから、SPEEDI をやっても難しい、使えない」と見ていたし、ERC の大方はSPEEDI 援用に消極的だった。しかし、住民避難班は防災計画におけるSPEEDI 予測を前提に住民避難計画を準備していた。
 3月11日か3 月16日までの6 日間に、保安院、文科省、安全委員会はそれぞれ独自に合計制件のSPEEDI 予測データを打ち出したが、これらの情報や評価の共有はまったく行われなかった。
 寺坂信昭保安院院長は、国会での質疑応答で、文科省、保安院、安全委員会がSPEEDI を用いた予測計算を「お互いにやっていたことを知っていましたか?」と関かれた際、「承知してございません」と答えている。
 原子力安全規制官庁の二元、三元体制の弊害が露呈した。
 3月16日の"枝野裁定"は、この弊害を如実に表した。
 危機においては、活用できる資源を統合し、動員する統合力を発揮しなければならないのに、まさにその時に、官邸は、モニタリングの調査、評価、公表をそれぞれに割り振るという分散型国数分解を行っていた。
そして、二元、三元体制の底に、JCO 臨界事故の際の旧通産省(現経産省)と旧科技庁(現文科省)の間のドロドロの官僚政治が渦巻いていた。
 16日に内閣官房参与に就任してからSPEEDI を使うことを強く主張したのは小佐古だったが、小佐古は文科省がSPEEDI 運用から手を引いたのは、文科省、とくに旧科技庁系の経産省・保安院に対する恨みつらみがあると指摘し、次のように語る。
「JCO 事故の時には経産省が我々をやっつけたじゃないか、あいつらのせいで科技庁がバラバラにされた。今回は、経産省の責任でしょ、おまえらの仕事でしょ、保安院が全部、原子力安全技術センターに発注して、自分たちでやったらどうですか、我々は外れますから、と。誰かが(SPEEDIの試算結果を)隠そうとしたんじゃなくて、誰が責任を持ってSPEEDI を回すかというところでたらい回しが起きて、わからないグループ(原子力安全委員会)に回ってきたからほったらかしになったということです」

 第三に、パニック回避と言う名のリスク回避である。
 ここは、政治家も官僚も変わらないが、官僚機構はこの点でさらに顕著である。
 SPEEDI の試算結果の中にはナマすぎる情報もあるだろう。信頼性に欠けるデータも出てくるに違いない。
 そうした時そのインパクトをどのように判断するのか。試算結果を出すことでパニックが起こらないか。いや、出さないと逆にパニックが起きるのか。
 そこは難しい判断を迫られた。
 逆推定による試算結果が公表された後も、それ以前の予測結果は官邸政務に上がらなかった。細野豪志首相補佐官はその理由について「放射性物質の放出源などが不確かで、信頼性がなく、公開で国民がパニックになる懸念があるとの説明を受けた」と述べている。
 ただ、国民がパニックになることを怖れたのは官邸も同じである。
「官邸はSPEEDI の存在を知ってからも、その公表には必ずしも乗り気ではなかった印象を受けた」と岩橋理彦原子力安全委員会事務局長は振り返る。
官邸がSPEEDI 試算のデータ公表路線に明確に転換したのは3月末になってからである。
 政府は当初は、ナマ情報によるパニックを恐れ公開を渋り、それが批判されると一転、5000 枚から1 万枚の図を一挙にネットに載せる、といったジグザグ対応となった。
 前章(「飯舘村異変」)で触れたように「ミスターSPEEDI 」と言われる茅野政道は、「SPEEDI は使えません」
 と聞くたびに、
〈高潮防災の予測について、間違ってはならない、だから使えない、とは誰も言わないはず〉
〈なぜ、今回、SPEEDI については完全を求めるのか〉
 との疑問を感じた。
 原子力災害に限って、この完全主義がまかり通る。
 原子力の安全については、どんな小さなリスクでもあってはならない。確率でそのリスクを表すことを日本は病的に忌避してきた。
「SPEEDI は使えません」もまた原子力の安全神話の照り返しだったのだろう。
 SPEEDI を公表することによってパニックが起こった場合、責任を取らされることを官僚機構は極度に怖れた。公表によって放射線量の高い地域の住民が我先に避難殺到し、制御できなくなるリスク、二次災害が起こるリスク、試算結果が後で間違いとなるリスク、そして何より補償を求められ、訴訟されるリスクを彼らは怖れた。
 彼らは、行動することのリスクより行動しないことのリスクを取ることを選択したのである。
 第四に、霞が関官僚機構に特徴的な縦割り行政と消極的権限争いである。
 消極的権限争いとは、政治的に得点にならないこと、役所の権限にプラスにならないこと、天下りポストを減らすようなこと、面倒な仕事を押し付けられること、幹部の出世の妨げになること、などについては、手を上げない、飛び出さない、目立たないようにする霞が関処世術である。
 福山官房副長官は、とくに文科省に消極的権限争いの傾向が強かったと振り返る。
「文科省は組織防衛で動いた。最初は逃げ回っていたんです。だから初めは保安院に押しつけようとし、それから原子力安全委員会に押しつけて、自分らは最終的には逃げる方向で動いたと思うんですよ……最初官邸からモニタリングを文科省でやれと言われたときも、どきっとしたんじゃないですか。その後も文科省の動きは鈍かった」

 危機のさなかに文科省はSPEEDI の運用を安全委員会に一方的に移管した。
 これ以後、文科省は「それは安全委員会に聞いてくださいということになるよね」との姿勢を決め込んだ。
 この事件は、霞が関の醜い消極的権限争いの歴史の中でももっともおぞましい例として記憶に留めておく必要がある。
 経産省出身の福島伸享衆議院議員(民主党)は国会の質疑で、なぜ、文科省はSPEEDI 情報をもっと早く出さないのかと問題提起したところ、文科省出身の原子力研究開発機構(JAEA) の理事が「先生、あまり騒がないでくださいよ」と電話をしてきた。
 福島は、1999 年のJCO 事故のとき通商産業省(現・経済産業省)で原子力安全問題を担当した。
「文科省はモニタリングはやるが、その数値に対する評価とシミュレーションは自分たちの所掌ではない、それは安全委員会の仕事。そう官邸で決まったじゃないですか」と理事は言った。
 福島は、聞き返した。
「いったい、文科省は何のために研究やっているの、それでは」
 理事は答えた。
「われわれの研究は、通常の状態での研究です。有事の研究ではありません」
 枝野は「文科省では旧科学技術庁の中がブラックボックスだった」と振り返ったが、文科省も安全委員会も原子力行政と安全規制は旧科技庁系が仕切っていた。
 そして、そこには"原子力ムラ"の利害関心が横たわっていた。
 岩橋は、「出世街道の人間は誰も安全規制をやらない。なぜなら、それをやろうとすると原子力ムラの利害とぶつかるからだ。だから将来性のある人材はそういうところ(安全規制)にはっけない」と"原子力ムラ"における安全規制の難しさを解説して見せた。
 原子力安全規制は霞が関の"端パイ"たちの終着駅だったというのである。
 最後に、SPEEDI は「実物以上、現実以上の存在」として政治的、行政的に利用されてきた。
 久木田豊原子力安全委員会委員長代理は「SPEEDI についても等身大でそれを理解し、参考としてでも使えたら、あるいは何か効果があったかもしれないと思います」と述べている。
 それは、「等身大」どころか「安全神話」の道具の一つとして喧伝されてきた。原子力推進のための住民の「安心」を買う仕掛けの一つだった。
 国がその研究開発に120 億円以上の税金を投入してきた以上、使えないはずはない。
 しかし、住民避難の判断材料としては、使いたくない。
 岩橋は、SPEEDI 権益の構造と背景を次のように分析した。
「旧科技庁キャリアは、自分も含めての話だが、旧通産省との原子力をめぐる権限争いに明け暮れた。
 そして、旧通産省に権限をジリジリと奪われていった歴史だった。なんとか原子力へのとっかかりを残しておきたいとの気持ちは強かった。そのとっかかりがSPEEDI だった」
 SPEEDI は、放射性物質放出量の逆計算や、重点的モニタリング地点の絞り込みなどに一定の役割を果たしたものの、原発がもっとも危機的な状況だった3月日日から同日の間はまったく活用されなかった。
 保安院、文科省、安全委員会が放出源情報がないことを理由にSPEEDI の試算データを信頼せず、活用する価値を認めなかったからである。
 ところが、メディアでSPEEDI が活用されなかったことが取り上げられ、政治問題化すると、今度はSPEEDI を使用していたその運用結果を隠蔽するような動きまで出た。
 民間事故調は、次のように結論づけている。
「SPEEDI は、事前の防災計画においては十分に活用されず、事故発生後の緊急時対応においては価値が認められなかったにもかかわらず、社会的には過度な期待が集まったため、一層、政府の事故対応に対する社会的な不信を高める結果を招いたのである」




 

 

 

 

 

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