現実と違っても数学モデルを信仰してしまう経済学者たち


ピグマリオン症

一部の経済学者の自由貿易信仰は、「貿易自由化によって利益を得られる業界とつながっているから」という事のみでは説明できない部分もある。それが話を複雑なものにする。実際、業界関係者から何ら利益を受けていない経済学者であっても、「自由貿易は絶対的に正しい」と吹聴する人はいるのだ。とくにオタク系経済学者に多い。

こうした人々が出てくる背景として、新古典派経済学という学問分野の持つ方法論の欠陥が作用しているように思われる。つまり、美しい数学モデルが出来上がると、その数学的な美しさに魅了されて、それを信仰するようになってしまうのである。

モデルと現実は違う。モデルは現実を近似したとしても、決して現実とイコールにはならない。ところが経済学者の中には、複雑奇怪な現実世界の現象よりも、エレガントで優美な数学モデルに恋焦がれて、それが現実であって欲しいと信仰するようになってしまう人がいるのである。困ったことに経済学のモデルの中には、現実の近似として不適切で、現実を説明する能力もないにも関わらず、数学的にオタクを魅了しやすいというものが多い。

かつて物理学者のJ・L ・シンジは、モデルに魅了されるという症状にかかった人々を「ピグマリオン症」と呼んだ。これはある種の病気であり、治療を要するのだと。ちなみにシンジの言うピグマリオン症とは、教育心理学で使う「ピグマリオン効果」とは別の意味なので注意されたい。「ピグマリオン症」は、全く広まらない概念であるが、とくに経済学者に多いように見えるこの症状に病名を付け、感染しないように注意を呼びかける必要性は高いと思うのである。

ギリシア神話に出てくるキプロス島のピグマリオン王は、あまりにも精巧に作成した女性の像を、現実の女性であるかのように考えて恋をしてしまう。二次元のアニメキャラに恋するオタク系の、神話世界における元祖といえるであろうか。

ピグマリオン症とは、「現実を説明するためのモデルでしかないものを、現実に存在する実態であるかのように錯覚してしまう」という症状である。アニメキャラに恋をしても社会に迷惑は何もかけないのでよいが、経済学の専門家がモデルに恋をして、それを現実のものと勘違いすると、しばしば現実社会に著しい害悪を与える。それゆえ、学問的リテラシーの問題として、学問におけるピグマリオン症は戒めねばならない。

新古典派経済学は、ニュートンの古典力学を模倣して構築された学問である。新古典派の創始者の一人であるレオン・ワルラス(1834〜1910)は、ニュートンの力学モデルを数学的に精綴化したラグランジュ(1736〜1813)の解析力学の体系を模倣して、その学問体系を構築している。これは誤った模倣であり、それゆえ、経済学は現実世界を正確に反映できないのである。

ニュートン=ラグランジュの古典力学モデルは非常に美しい数学的体系を持っている。それはある範囲で驚くほど正確に現実を近似する。しかしモデルであって現実ではない。物質の質量が原子レベルに近づいていけば古典力学は成立しない。物体の速度が光速に近づいても古典力学は成立しない。前者は量子力学モデルの扱う領域であるし、後者は相対性理論モデルの扱う領域になる。他にもニュートン力学モデルは非可逆性を伴う熱力学的現象を説明できないし、電場と磁場の作用による電磁気現象も説明できない。およそモデルというものは、さまざまな前提の制約条件の中で、ある範囲で、現実世界を近似するに過ぎない。

ニュートンの古典力学にしてもアインシュタインの相対性理論にしても、それぞれ物理学における一つのモデルである。それら全ては「現実世界」に接近するために考案された近似としての「モデル世界」である。それらのモデルは現実を近似するが、「現実世界」そのものではない。ある前提条件の下で、きわめて適合性の高いモデルと判断されるが、その適合範囲には限界がある。実験結果とズレできたら、「ここから先はこのモデルでは説明できない」と判断するしかない。しかしあまりにもモデルが美しいと、モデルを現実と勘違いしてしまうピグマリオン症にかかった学者が出てくるのである。

一例をあげよう。ニュートン力学のモデルで、電気や磁気に関する現象を説明することは不可能であった。しかしニュートン流の方法論が全てにおいて適用可能だと考えた物理学者たち(たとえばアンペール、ガウス、キルヒホフなど)は、「電荷を粒子として、力は遠隔に作用する」というニュートン力学の方法論で電気や磁気の諸現象を説明しようとした。しかし、その試みは破綻した。彼らは理論の適用限界を知ることなく、ニュートンのモデル世界を信仰しすぎたピグマリオン症にかかってしまっていたといえるだろう。

結局、電磁誘導の法則を発見し、電磁気学を創設したのは、学校教育もほとんど受けていない独学の大実験物理学者マイケル・ファラデー(1791〜1867)であった。ファラデーは、十分な数学教育も受けていないことが幸いしたのか、ニュートン力学のような美しく体系化された学問のドグマに縛られていなかった。彼は、あくまで現実の実験結果に基づいて、自由  想像の翼も広げながら、新しい電磁現象を説明する「場の理論」を構築できた。ニュートン流の「力の遠隔作用理論」を破棄し、「電場や磁場という『場』の変化が近接的に作用する」という新しい理論で電磁気現象を説明し、それが成功したのである。

当たり前のことであるが、物理学の場合、あくまでも実験・実証の価値の方がモデルよりも上である。モデルが実験に反すればそのモデルは誤った学説として棄却される。しかし、経済学においてはしばしば実証よりも数学モデルの価値が上とされる。現実の経済現象に実証的には反するモデルが、あたかも真理であるかのごとく大手を振ってまかり通っているのだ。これは科学を冒涜しており、単なる数学のお遊びと言うべきである。


古典力学から生まれた新古典派経済学

私自身の経験を語ることを許していただきたい。私は大学四回生のときに初めてミクロ経済学(=新古典派経済学)というものを勉強しようと思った(独学で)。私は、1990年代初頭当時の風潮、すなわち、すべてを市場に任せよとばかりに規制緩和・自由化・民営化が無条件で礼賛されていた社会的熱狂に恐ろしさを覚えていた。このままでは自分自身も含めてまともに食べていけない世の中になるのではないかと不安になった。そこで、彼らはどうして市場原理をあれほど無邪気に賛美するのか、その理屈を知らねばならないと考えたのである。

経済学を勉強してみると、その理屈は唖然とするばかりにオソマツであった。まず面食らったのは、ミクロ経済学の教科書の中に「ラグランジュの未定乗数法」が出てくることであった。

大学二回生のときに「解析力学」の講義で習ったラグランジュの方程式が、なぜかミクロ経済学の教科書にそのまま書かれているのである。新古典派経済学において、利潤最大化を求める生産者の行動や効用最大化を求める消費者の行動は、最小作用の原理(ニュートンの運動方程式の数学的に別種の表現形式)に従う真空中の質点の運動と向じモデルで説明されている。それゆえ同じラグランジュ・モデルが解析力学と新古典派経済学の教科書の双方に登場するわけだ。

企業経営者という、主体的な意思をもって日々苦闘しながら経営している生身の人間の行動を、意思もなくただ法則に従うだけの質点の運動になぞらえているのである。「何と無礼ではなかろうか」と開いた口がふさがらない思いであった。経験的には、古典力学が扱う静的でメカニカルで時間可逆的な現象と、動的でダイナミックで時間不可逆的な経済現象というものは似ても似つかない。全く違った現象が、同じモデルで語られているというのは明らかに変である。

新古典派モデルでは、生産者は欲望の赴くままに利潤最大化を求めて生産し、消費者はこれまた欲望のままに効用の最大化を求めて消費すれば、競争状態で均衡し、最適な資源配分が実現されるという。もちろんウソである

新古典派は、「均衡」を正当化するためにラグランジュ的な「最小作用の原理」のアナロジーを経済学に導入するにあたって、財の生産規模を拡大すればするほど製品一単位あたりの生産コストが増大していくという仮定を導入していた。これは明らかに現実世界から議離した仮定だ。

近代産業においては、多くの場合、規模の経済効果や学習の効果が働くので、製品一単位当たりの生産コストは時間とともに減少していく。しかるに新古典派経済学においては、時間という変数は登場しない。社会の歴史的な発展過程を扱う学問に、「時間」という概念が登場しないのは、とてつもなく奇妙なことである。

規模の経済がある場合、生産活動は動学的に拡大されることが利益となり、生産に利潤最大点など存在しない。その場合、市場競争とは弱肉強食であり、競争の果てに独占が成立する可能性が高く、独占に至れば消費者利益にも反することになる。新古典派は、競争状態で均衡しながら最適な資源配分を実現するというモデルを正当化するために、現実を無理に捻じ曲げた仮定を置いたのである。

現実の市場メカニズムは美しくない。しかし教科書に書かれたモデル上の市場メカニズムは美しい。恋をしたくなる気持ちも分からないでもない。そう思ったとき、私は、かつて読んだ『相対性理論の考え方』という本に書いであった概念をふと思い出したのだった。「ああ、この人たちはピグマリオン症だ!」と


経済学者の精神分析

新古典派経済学のモデルは、解析力学モデルの模倣の産物であるという点を丹念に裏付けた本が、荒川章義の「思想史の中の近代経済学』(中公新書、1999年)である。これは名著である。経済学部の大学生に薦める本を推薦して欲しいと誰かに聞かれたら、私は迷わず『思想史の中の近代経済学』をリストの上位におくだろう。大学生がミクロ経済学を勉強するに当たって、ピグマリオン症への感染を予防する免疫づくりに最良の書と思うからだ。この本を読めば、学生たちは、経済学という学問が如何に物理学を模倣して構築されたのか、なぜあそこまで現実から議離した体系をもっているのかを理解できるであろう。

私はミクロ経済学を全否定するわけではない。少なくとも数学の勉強にはなる。恣意的な仮定を導入すれば、数学を使っていかなる空想的モデルも構築可能であり、従ってどんなウソでもつくことが可能になる。この事実を教えるには良い教材といえるだろう。

経済学があのように現実離れした体系になってしまったのには、様々な要因が作用しているのだろう。経済学者の数学に対するコンプレックス、他の社会科学の諸分野に対する優越感、それらが複雑にまじりあって、独特の「新古典派ムラ文化」を生み出したのではあるまいか。文科系の人々の多くは、自分たちが数学モデルづくりをすることはできないため、数学モデルづくりを行うのに長けた米英の経済学者たち(理系から文科系に転じた人が多い)にプレックスを抱いてしまう。「何かすごい人」のように勘違いして崇拝してしまうようなのである。さらに困ったことには、「アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞(俗にノーベル経済学賞と呼ばれる)」という、ノーベルの名を詐称する図った賞が存在し、新古典派の原理主義者たちを多数表彰してきた。これはノーベル財団の賞ではなく、賞金もスウェーデン国立銀行から拠出されている。金融業界の意向が強く反映され、純粋な学術的な表彰という意図と利害矛盾関係にあるのである。

しかし多くの経済学徒は純粋な学問的貢献に表彰されていると考えてしまうので、「数学を使った新古典派経済学のみに権威がある」という信仰を抱いてしまう。そして、本来は一番大事な実証研究が軽視されるようになり、「数学を使っていれば科学的だ」などという、科学を冒涜するような誤った価値観を発生させてしまった。科学で一番重要なのはもちろん実験・実証である。数学モデルは実験結果を説明するためのツールとしての意味しかない。経済学においては主従が逆転し、モデルが上位で、実証が下位であるかのような非科学的価値観が支配している。

コンモデルが不適切な模倣の産物だと気付かない経済学部の人々は、「経済学は他の社会科学とは違って唯一数理化されている学問だ」などと考え、優越感を抱いてしまうようである。「数理化=科学的」というわけではない。過度に数学化して実証を軽視するようになった経済学はむしろ科学的な方法論から遠ざかってしまったのである。

しかしながら、数学モデルを重視しながら実証を軽視する方法論は、他の学問分野から経済学を防衛するために有効に機能してきた。経済学者の主張がおかしいと思っている歴史学・社会学・文化人類学・政治学・倫理学……といった他の人文・社会科学の諸分野の学者は数多いが、経済学が日常からかけ離れた専門用語と数学モデルによって武装しているため、議論しようと思っても話が噛み合わず、煙に巻かれて退散する羽目になってしまうからである。

新古典派経済学の基礎をつくったレオン・ワルラスは経済現象を説明しようと研究したのではなく、解析力学のような数学的に美しい体系に魅了され、そのモデルを無理にでも社会科学に導入しようとした。それは、電磁気現象にニュートン力学を導入しようとする以上に不適切なことであった。古典力学が扱う現象は非可逆な歴史発展をともなわない時間可逆的な静的現象であるのに対し、経済学が扱う現象は時間と経路に依存した発展をともなう歴史的な現象であるからである。

経済学部の学生は解析力学など勉強しない。このため、自分たちの体系が物理学の模倣であるということに気づかない。私は大学四回生の頃、経済学部の友人に、ラグランジュの解析力学と新古典派経済学の相似のことを話すと、彼は「何だラグランジュって物理学者だったのか!」と驚き、その後苦笑いしていた。どうやら彼は、新古典派が何故ああなったのか、すべてを理解したようだった(その友人は現在は経済学者になっている)。それにしても、ラグランンジュが物理学者であることも教えずに、ラグランジュの数学を受け売りしている経済学教育には大きな問題がある。前掲の『思想史の中の近代経済学』は必読といえそうだ。

誤った仮定に基づく数学モデルなど単なる遊戯でしかなく、学問的な意味はない。

経済学者のディアドラ・マクロスキーは意味のない仮定に基づいて意味のない数学モデルづくりに熱中する経済学者たちを「お砂遊びに興じる坊やたち」と呼んでいる。彼女は次のように言う。

経済学者たちは、その多くは男たちだが、機械的な方法論は正しく、したがって正しい結果を導いていると確信している。……彼らはマッチョ的な業績に満足し、大得意である。(中略)

私はいまお砂場遊びに興じている三歳の甥っ子とその友達らを見守る叔母の気持ちでいる。坊やたちは遊びに夢中で、自信と活力に満ちており、遊びが現実であることを少しも疑っていない。(中略)

ここに女性の出番がある。……どうすれば経済学を現実世界に引き戻せるかと。……男性はつねに女性から笑われることを恐れる。だから、みんなで一緒になって男たちの尊大な態度を笑ってやりましょう。

「マッチョな業績に大得意」の典型的人物のように見える経済学者のローレンス・サマーズ(クリントン政権時代の財務長官)は、政府からの退任後にハーバード大学の学長に天下り、学長時代に「女は数学ができない」といった趣旨の差別発言をして辞任に追い込まれた。しかし、数学を使う経済学の世界に男たちばかりが異常に多いのは客観的な事実である。

生活者として現実世界に根ざした女性たちから見れば、現実から乖離した意味のない数学モデルをもてあそぶ男たちなど滑稽でしかなく、それゆえ経済学には拒絶反応を抱いてしまうのかも知れない。しかし拒絶して遠ざかるよりも、マクロスキーの言うように、お笑いの対象にする方が賢明ではなかろうか。女性経済学者がもう少し増えれば、経済学ももう少しまともになるであろうから。

数学モデルというものは、現実を説明するためのツールでしかなく、実証的な研究と整合して初めて意味を持つ。経済学の場合、数学モデルを作ることのできる人間が「偉い」と賛美され、実証研究を軽んじる文化が強い。その数学モデルが全く現実と乖離したものであっても、そのモデルを信仰し、世の中がそうであって欲しいと願うようになってしまうのである。

まさにギリシア神話に出てくる。ヒグマリオン王そのものだ。マッチョな男たちが、現実から乖離したモデルを現実に適用すると、現実世界を地獄に突き落とすことにもつながる。現在まさにそうなっているように。



自由貿易神話解体新書 から抜粋

 

 

 

 

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