エコ・デモクラシー

日本の読者に向けての序文

今後は、福島第一以前と以後とが、スリーマイルの以前と以後、さらにはチェルノブイリのそれと同じように語られることになるだろう。福島に住む人びとの困難や苦しみからわたしたちは遠いところにいる。しかし、この事故の意味は世界的な広がりをもつものである。それは、最新のテクノロジーシステムとわたしたちの代表制民主主義とにかかわる問題提起であり、この民主主義が市民に安全を保障する能力、すなわち市民を社会的脅威や自然・技術の危険から守る能力への信頼を揺るがしたからにほかならない。

今回の事故は、わたしたちの社会の経済的原動力や推進力にも衝撃を与えた。GDP 〔国内総生産〕やキャッシュフローに占めるエネルギー生産は4%程度にすぎないが、この数パーセントが不足することで、わたしたちの経済活動を下支えしているあらゆる動脈が寸断されるかもしれないのである。そして忘れてならないことは、フクシマは、世界でもっとも高度なテクノロジーをもつ国の一つ、また主要な近代民主主義の国の一つで起きたという事実である。

フクシマはわたしたちに新しい世紀への入り口を示している。それは、経済の根底を支える資源(エネルギー、鉱物、生物)の有限性と、生物圏の調整メカニズムそのものの有限性という二重の有限性を前に、わたしたちの社会が信じがたいほどの脆さを露呈しつつあることが徐々にではあるが、ようやくわかってきたことを意味する。

それなのに、わたしたちの代表制民主主義はこの現実に向きあおうとしない。この制度が目指すものはGDP の成長以外にはないからである。そしてそれは必然的に資源とエネルギーの消費の増大をともない、生物圏を枯渇させていく。希少化する資源や凶暴さを増す自然のなかでこの地球は縮小しつつあるというのに、縮小する世界への移行がもたらす圧力にもわたしたちの制度は対処することができないでいる。

この有限性にたいする答え──たとえば温室効果に対処するための原発への大幅な依存──が単に技術的、経済的問題のレベルにとどまらないことをわたしたちが理解すればするほど、状況はいっそう複雑さを増していく。すべての「解決策」は、当然一定のリスクと、価値観の是非にたいする態度表明とをともなう。

ところが、わたしたちの現在の代表制度は、すべての議論を技術的選択へと収斂させるように設計されている。いま、わたしたちには一つの政治的問いかけが突きつけられている。どのような民主主義的手段と、どのような制度によって、新しい世紀にふさわしい思考と熟議とを実現することができるのだろうか?

本書では、こうした新しい状況に民主主義を適応させ、あらゆる民主主義に共通の権力対反権力の関係を意味あるものにするために、市民社会の人的資源を活用し、さらに大筋において国際化も可能な、より複合的な新しい制度設計を提案する。その基礎には、公共の活動が踏まえるべき新たな前提条件がある。それは、地球というシステムの有限性、すなわち地球資源が限りあるというだけではなく、人間の活動の技術的可能性もまた無限ではないと認めることである。

この制度の仕組みの中心には、長い任期を特徴とする「上院」がおかれる。これは選挙によらない議院で、この基本的な前提条件に反する法案にたいし建設的拒否権を行使することができる。この上院を支えるのが「未来アカデミー」である。このアカデミーは人類の存在の技術的、自然的な枠組み、その進化、その限界、そしてそれがもたらしうる脅威について、公権力に情報を提供することを使命とする。

上院はさらにその判断の源泉を、公の討論や環境NGO という新しいアクターにも求めることができる。これに加えて、長期間の任期を有し、建設的拒否権を与えられる大統領制にもリンクさせるという考えもあるが、本書ではこの点について掘り下げた議論はおこなわない。

わたしたちが提案する議会のシステムは、実際には三院制である。多くの代表制民主主義で見られるように、立法機関としての下院〔フランスでは国民議会〕および従来の上院〔フランスでは元老院)に、新機軸の構成と権力を有する第三の議院をつけ加えるというものである。この提案が、今後さらに議論され、深められていくことを期待したい。

わたしたちの考えが日本にも紹介されることを無上の喜びとし、議論を通じてより深く検証され、さらに豊かなものになることを信じている。

2011年9月
ドミニク・ブール
ケリー・ホワイトサイ

 

 

監訳者あとがき から抜粋

‥‥そもそも、近代民主主義に基づく代表制政治では、現代の環境問題のすさまじいまでの規模と新しさには対応できないというのが、著者の基本的な認識である。

有権者によって選ばれた代表者が、選挙民の現在の利益のために活動することを前提とする政治制度そのものが、現代の環境保護には適合しえないと考えるからだ。そこから著者は、従来の政治的枠組みに発議権と拒否権とを有する参加型民主主義を注入しようという具体的な提案をおこなう。重大な事故に直面し、大きな岐路に立たされているいまのわたしたちに、大胆な、しかし喫緊の発想の転換をうながす論考である。

読者の論旨整理のお役に立てばと考え、ここで少し内容に立ち入ってみようと思う。著者にたいする不作法はもとより承知の上である。

まず著者は序文のなかで、代表制の政府が環境問題に対応しきれない理由として、現代の環境問題の五つの特徴をあげる。

@地理的広がり = 環境問題の脅威は、もはや国家の枠組みを超える規模で広がっている。しかし、限定された地域の代表として選出された政治家は、それぞれの選挙区の短期的な利益を優先させることを余儀なくされる。

A不可視性 = 今後、環境問題の多くは目に見えない形で起こってくる。人間が直接的に知覚できず、高度なテクノロジーによらなければ知ることができない脅威を前にして、市民はどうやって国の政治の正当性を判断できるのだろうか(いまの日本の国民がおかれている状況はまさにこれである)。

B予知不可能性 = 放射能汚染、気候変動、オゾン層破壊など20世紀後半に現出した大きな問題は、いずれも予測されたものではなかった。「統治するとは予知すること」という法言はもはや通用しなくなっている。

C未来への脅威 = 環境問題は長期にわたって人類の生活を脅かす。温暖化や海面上昇、極端な環境の劣化など、人類の生存にかかわる重大な危険を回避するための行動はしかし、わたしたちが求める快適な消費生活を抑制しようとするだろう。選挙民の現在の利益のために行動する従来型の政治家たちに、長い時間軸での判断を求めることは困難なのである。

D脅威の認識 = 環境問題は単なる汚染問題ではない。むしろ重要なのは、自然環境にかかる過剰な負荷とその限界の問題である。汚染対策技術も含めて、技術の進歩は資源の消費に拍車をかけ、世界規模の消費拡大は地球全体を縮小へと向かわせる。ところが、「代表制の政府は物質的な富の蓄積を容易にし、その生産と消費を最大化するために設計された制度」なのである。‥‥

 

 

 

 

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